内容的には「約8年 その9」の続きです。
2014年の10月の終わりに、乳がんの手術をしたスノウさん。それから2018年の年末まで、私たちはお気楽な気持ちで、あっちに行ったりこっちに行ったり、そして実家に行っては楽しい姉妹集会をしていました。
その年末の検査で、肺に白い影が映ってしまったのです。
その時のお話といきさつは「自由が丘に行きました。」をお読みくださればと思います。
私たちは、どちらかというとポジティブ思考の集団なのかも知れません。
乳癌、肺がんとやっていても、体力さえつけば、また元のような暮らしが戻ってくると信じていたのですから。
なぜなら、上にリンクした記事にも書いたと思うのですが、その肺がんは乳癌の転移ではないと言われたからで、それを信じたからでした。
手術日は2月5日で4時間半の時間を費やしました。
その後のスノウさんとお見舞いの様子は→「自由が丘に行きました。その2」
数日前から、この記事を書くために自分のブログを遡って読んだり、パソコンの中のアルバムなどを見ていました。
その病室での写真に写っていたのは、ニコニコと笑うスノウさんと私たちでした。
だからそれからそんなに間の空いていない3月20日には、私と名都さんはまた自由が丘を訪れて三人でちょっとリッチなランチをしたのでした。「その2」の記事内に書いたことですが、肺がんの手術の時に、他にも小さながんが見つかってそれも切除する事が出来たけれど、その為に抗がん剤治療が決まってしまったので、その前のランチ会でした。
この時、スノウさんったら、私たちにお見舞いのお返しで飲み物代は出すと言ったのに、その時のお酒が高すぎて目を回していたのよね。(パパさんのカードだったからだと思う…。)私はそれに関しては長いお付き合いの歴史で、凄く思っていることがあって、お酒代に対しては凄く冷たいの。
「自分で飲んだのよ。」と知らんぷり。
これに関して、私本当に思っています。「長いお付き合いの歴史で思っていることがあって・・」と言うのは、それは私が他の人からも学んできたことで、あまり間違ってはいない付き合い方だと思うのです。でも人はみんな、いつか死ぬ。それは私も。だったらそこに愛があるのなら、びしっと計算した損のない付き合いなんかに拘らなければ良かったのだと、本当に悔いています。どうせほかでいっぱい損ばかりしているのですから。
「ハイハイ、ここはお姉ちゃんに任せて。」「ハイハイ、ここも私が出してあげる。」「はいはい」「はいはい」と、いい顔してればよかったと思うのです。だって私はお姉ちゃんだったのだから。
もちろん別に何も揉めたわけではなく、やはりアルバムの中の私たちはみんなゲラゲラとまたはにこにこと笑っていました。
その時の記事、『「じゃあね。」と別れて、私と一番下の妹は駅の改札前で時刻表示の案内を見上げていましたら、いきなり別れたばかりの妹が「わっ!!」と抱き着いてきました。
「わーっ、吃驚した。もう行っちゃったと思ってたよ。」と言いながら、私たちはその妹に見送られながら駅の中に入って行ったのでした。
「楽しかったから、お別れが寂しかったのかしら。」と私は思いました。』
この時、私の本当の気持ち・・・・・・
「嫌だな~。こういう事しないでよ。」だったのです。だって忘れられないシーンになってしまうでしょう。まるで映画のワンシーンのように。なんだか感傷的な気持ちになってしまい、帰り道に上野で降りたって桜の花を見て帰った春の日だったのでした。
長くなったので「その12」に続きます。
少し続けて書いて行こうと思います。