(伊那街道 吉田往還 豊川市東上町)
前項、柿木道下から松本川に架かっていた木橋を渡り、新江島橋の下を通って、宮出川の木橋を渡ると、御番所跡があった。
御番所は寛永二十年頃(1643)設けられた幕府の番所である。
前を流れる豊川や街道を往き来した産物に税金を課すこと、通行人を取り締まる治安維持を目的に設けられたものである。
私の子どもの頃は、土道と小川、木橋、傍らには東上(宝飯郡の東の条)の地名の由来ともいわれる条理制遺構の田畑が広がり、往時そのままの光景が広がっていた。
平成に入り、宮出川河口付近の豊川堤防築造により河川敷内となることになったため、御番所跡の碑と籰繰(わくぐり)神社旧跡を堤防北側に移転した。そして街道は消えた。
またそれと並行して行われた圃場整備によって条理制遺構も失われ、道も区画化された。
御番所より東の東上本村地内での街道は、村の南、豊川の川縁を通っていたが、宮出川河口付近の堤防が造られるより一足早く堤防が造られ、街道は痕跡すら残っていない。
往時はシャラ川と清水川(石組みのある清水の写真)の小さな川を渡り、郡境の境川河口を渡ると、中村(新城市豊島)へと通じていたのである。
前項、柿木道下から松本川に架かっていた木橋を渡り、新江島橋の下を通って、宮出川の木橋を渡ると、御番所跡があった。
御番所は寛永二十年頃(1643)設けられた幕府の番所である。
前を流れる豊川や街道を往き来した産物に税金を課すこと、通行人を取り締まる治安維持を目的に設けられたものである。
私の子どもの頃は、土道と小川、木橋、傍らには東上(宝飯郡の東の条)の地名の由来ともいわれる条理制遺構の田畑が広がり、往時そのままの光景が広がっていた。
平成に入り、宮出川河口付近の豊川堤防築造により河川敷内となることになったため、御番所跡の碑と籰繰(わくぐり)神社旧跡を堤防北側に移転した。そして街道は消えた。
またそれと並行して行われた圃場整備によって条理制遺構も失われ、道も区画化された。
御番所より東の東上本村地内での街道は、村の南、豊川の川縁を通っていたが、宮出川河口付近の堤防が造られるより一足早く堤防が造られ、街道は痕跡すら残っていない。
往時はシャラ川と清水川(石組みのある清水の写真)の小さな川を渡り、郡境の境川河口を渡ると、中村(新城市豊島)へと通じていたのである。
籰繰神社は代々お参りして、お世話になっています。なじみが深い場所の紹介でしたので、うれしく思います。
確か東上の分一番所の絵図をどこかで見たように思います。記憶が不確かですが・・・。旧町誌を見てみます。
写真とかに残さなかったのが残念です。
記憶と地籍図がだいたい一致しているので、形の少し崩れた正方形の条理田畑は長い間残されていたようです。
わくぐり神社は私もなじみ深いです。
砥鹿神社よりお参りしてるかも(笑)