(沖縄県うるま市勝連町南風原 世界文化遺産 国指定史跡)
12世紀、中城湾を望む標高100mの丘陵地に、英祖王統(琉球国王)二代大成の五男勝連が築いた城とされる。英祖王統系が五代にわたって続いた後、伊波按司六男が一代、浜川氏が二代、そして茂知附氏が城主となった。その後、茂知附氏臣阿麻和利が城主となったが、長禄二年/天順二年(1458)琉球王国第一尚氏によって滅ぼされた。
長らく往時の姿を残してきたが、大正時代に入り、城壁が麓の護岸材料に転用された。
(四の郭石垣)
(南風原御門跡から三の郭)
(三の郭石垣)
(中城湾を望む)
(二の郭舎殿跡)
(拝所)
(一の郭石垣)
(一の郭)
(一の郭城門)
(四の郭復元石垣)
(四の郭から井戸、東の郭)
勝連城前のバス停でバスを待っていると、「乗ってください」と自動車が止まった。「こんな暑いところで待っていると大変だから、本数の多い赤道(あかみち)まで乗せていってあげますよ」と言われ、乗せて頂いた。この方は過去に自衛隊に勤務されていて、本土の呉基地を最後に定年退職された方であった。今から当時の仲間に会いにいくところということであったが、結局、赤道より先のコザまで乗せて頂いた。
(関連記事:首里城 中城城 今帰仁城)
12世紀、中城湾を望む標高100mの丘陵地に、英祖王統(琉球国王)二代大成の五男勝連が築いた城とされる。英祖王統系が五代にわたって続いた後、伊波按司六男が一代、浜川氏が二代、そして茂知附氏が城主となった。その後、茂知附氏臣阿麻和利が城主となったが、長禄二年/天順二年(1458)琉球王国第一尚氏によって滅ぼされた。
長らく往時の姿を残してきたが、大正時代に入り、城壁が麓の護岸材料に転用された。






































勝連城前のバス停でバスを待っていると、「乗ってください」と自動車が止まった。「こんな暑いところで待っていると大変だから、本数の多い赤道(あかみち)まで乗せていってあげますよ」と言われ、乗せて頂いた。この方は過去に自衛隊に勤務されていて、本土の呉基地を最後に定年退職された方であった。今から当時の仲間に会いにいくところということであったが、結局、赤道より先のコザまで乗せて頂いた。
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(佐賀県西松浦郡有田町泉山)
泉山磁石場の傍に建つ、山神を祀る神社である。当初は磁石場の採掘坑内に祀られていたが、後に現在地に社殿を建て移転したようである。社殿の横には、磁祖「李参平公之像」と、高麗神が存在する。
泉山磁石場の傍に建つ、山神を祀る神社である。当初は磁石場の採掘坑内に祀られていたが、後に現在地に社殿を建て移転したようである。社殿の横には、磁祖「李参平公之像」と、高麗神が存在する。


繊維の街には、高度成長期からバブル期に築造された、ビルの空きが目立っている。
(都ビル)
(升重ビル)
(旧タマコシ岐阜ビル)

(柴田会館ビル)

(名鉄徹明町ビル)
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(柴田会館ビル)



(名鉄徹明町ビル)
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(本坂通 浜松市北区三ヶ日町日比沢)
三ヶ日宿から本坂峠に向かう途中にある集落である。慶長六年(1601)に気賀関所ができるまで、この地に関所があったとされる。故に本陣や高札場等があり、峠越えの休憩地として栄えたという。また、「本坂」は、「穂の国の坂」に由来するという説がある。
三ヶ日宿から本坂峠に向かう途中にある集落である。慶長六年(1601)に気賀関所ができるまで、この地に関所があったとされる。故に本陣や高札場等があり、峠越えの休憩地として栄えたという。また、「本坂」は、「穂の国の坂」に由来するという説がある。






(沖縄県那覇市泊 国指定重要文化財)
霊徳山崇元寺は、大永七年(1527)琉球王朝尚氏の霊を弔うために建立された、臨済宗の寺院である。永きにわたり沖縄では数少ない寺院として存続してきたが、先の沖縄戦により大きな被害を受け国宝の寺院は滅失、この石門だけとなった。
霊徳山崇元寺は、大永七年(1527)琉球王朝尚氏の霊を弔うために建立された、臨済宗の寺院である。永きにわたり沖縄では数少ない寺院として存続してきたが、先の沖縄戦により大きな被害を受け国宝の寺院は滅失、この石門だけとなった。
(やはたやま 静岡市駿河区八幡)
有東山のすぐ北側に位置する、標高64mの丘陵であり、応永十八年(1411)今川範政によってこの山に城が築かれた。文明八年(1476)には、今川義忠の家督相続により、嫡男龍王丸(氏親)と義忠の従弟の小鹿範満の間で家督争いが起き、鎌倉から派遣された範満側の太田道灌の軍勢がこの八幡山に布陣したが、龍王丸側の伊勢新九郎(北条早雲)の活躍によって決着した。新九郎は八幡山城を改修してその麓に居館を構え、駿東郡興国寺城に移るまで居城した。その後、武田氏の城となったが、武田氏滅亡後は関東移封まで徳川氏のものとなった。
主郭のあった最高所には、八幡山古墳が存在する。
(南麓に建つ臨済宗神龍院)
(次郭跡)
山の西側には、山名の由来ともなった、 神護慶雲三年(769)創建の八幡神社があり、誉田別命(ホムタワケノミコト:応神天皇)を祀る。永禄十一年(1568)武田信玄の駿河侵攻によって兵火に遭い、記録を失ったが、『駿河志料』によれば、寛元元年(1243)駿河国惣社別当憲信によって大般若経がこの社に寄進されている。更に明応三年(1494)今川氏臣福島助春が再寄進した旨が記されているという。
有東山のすぐ北側に位置する、標高64mの丘陵であり、応永十八年(1411)今川範政によってこの山に城が築かれた。文明八年(1476)には、今川義忠の家督相続により、嫡男龍王丸(氏親)と義忠の従弟の小鹿範満の間で家督争いが起き、鎌倉から派遣された範満側の太田道灌の軍勢がこの八幡山に布陣したが、龍王丸側の伊勢新九郎(北条早雲)の活躍によって決着した。新九郎は八幡山城を改修してその麓に居館を構え、駿東郡興国寺城に移るまで居城した。その後、武田氏の城となったが、武田氏滅亡後は関東移封まで徳川氏のものとなった。
主郭のあった最高所には、八幡山古墳が存在する。












山の西側には、山名の由来ともなった、 神護慶雲三年(769)創建の八幡神社があり、誉田別命(ホムタワケノミコト:応神天皇)を祀る。永禄十一年(1568)武田信玄の駿河侵攻によって兵火に遭い、記録を失ったが、『駿河志料』によれば、寛元元年(1243)駿河国惣社別当憲信によって大般若経がこの社に寄進されている。更に明応三年(1494)今川氏臣福島助春が再寄進した旨が記されているという。




