(天台宗比叡山延暦寺 滋賀県大津市坂本本町 世界文化遺産 国宝 国指定重要文化財)
雲の中の比叡山に辿り着く。時折雷鳴のする広い境内を歩いていると、大粒の雨そして晴れ間と、変わりやすい山の天気が繰り返されていた。
振り返れば、善光寺、高野山、熊野、四天王寺、厳島神社、太宰府を訪れ、ようやく比叡にも参詣ができた。
(国宝 根本中堂 寛永十九年) (文殊楼の文殊菩薩)
(重文 大講堂 旧山麓讃仏堂 寛永十一年)
(重文 戒壇院 延宝六年) (法華総持院東塔)(法華総持院阿弥陀堂)
東塔に位置する根本中堂は、延暦寺の総本堂となっていて、薬師如来が安直されている。 延暦寺は延暦七年(788)最澄が創建した一乗止観院)が始まりである。平安時代から鎌倉時代にかけて、後に新仏教を起こす僧たちを輩出した。然し、比叡山の僧たちは次第に武装化し、時の権力者らと対立して幾度となく焼き討ちに遭っている。
(閼伽水(あかすい)「弁慶水」)
(比叡九院の一つ、山王院)
(熊本県阿蘇市 阿蘇くじゅう国立公園)
カルデラ内である、阿蘇のまちから阿蘇五岳の斜面を上がっていく。
阿蘇五岳は高岳(1592m)を最高峰に、中岳(1506m)、根子岳(1433m)、烏帽子岳(1337m)、杵島岳(1326m)から成るが、その他、楢尾岳(1331m)、往生岳(1238m)等がある。
(杵島岳)(往生岳) (杵島岳 南西から) (米塚 標高954m)
阿蘇の神、健磐龍命(たけいわたつのみこと)が収穫した米を積み上げたものが山になったという神話がある米塚。山頂の凹みは貧しい人に対し、神が米を掬った跡という。
現在、このブログを介さない日記を他のSNS系で投稿しているが、諸問題が発生しているため連絡事項的投稿またはメッセージを除き、当面休止することにした。
(滋賀県近江八幡市安土町下豊浦 国指定特別史跡 琵琶湖国立公園)
かつては琵琶湖に接していた安土山に、天正四年(1576)織田信長によって築かれた山城である。天守は六階望楼付とされるものであったが、天正十年(1582)本能寺の変後に本丸及び天守を焼失している。その後、織田信秀が二の丸に居城するが、天正十三年(1585)に廃城となっている。
現在は石垣や石段等を残すのみであるが、当時実際に城を目にしているとされる宣教師ルイス・フロイスの記録によって、当時の様子を今に伝えている。城域の西側に建つ総見寺の境内に仁王門と三重塔があるが、在城当時からのものとされる。平成元年から滋賀県は安土城の発掘調査を行っており、南山麓から本丸へ続く大手道、通路に沿って築造された伝羽柴秀吉邸や伝前田利家邸、天皇行幸を目的に建設したとみられる本丸御殿等の遺構が検出され、併せて石段・石垣が修復工事が施されている。また、石材には石仏、墓標等も含まれている。
(伝前田利家邸跡) (伝羽柴秀吉邸跡)
(伝徳川家康邸跡)
(天守台) (本丸)
この後は、織田家墓所と総見寺側、そして安土街道に向かった。
(愛知県津島市 1982年5月6日)
海部郡の中心地であった津島を訪れた。先ず市役所教育委員会に立ち寄ったが、頒布する郷土資料が紙一枚すらなく、他所と比較して取り組みの遅れを非常に感じた。全国の天王社、津島社の本宮である津島神社を参拝した後、その津島神社から美濃路土器野を経て名古屋に至る、上街道の風情の残る町並みを歩いた。
(津島市役所)
(金町)
(浄土宗飛龍山寶泉寺)
(伝弘法大師手植えの楠)
(浄土宗亀伯山大龍寺)
『浪合記』によると、大龍寺は永享八年(1436)後醍醐天皇の曾孫、良王親王が、父尹良(ゆきよし)親王の菩提を弔うために建立したとされる。
(関連記事:天王川の藤 尾張津島の山車 津島神社花の撓 津島平成二十年)
(九帝王宮 滋賀県大津市大萱)
瀬田は、古代、栗本郡勢多と呼ばれ、近江国府も置かれた地である。
東海道線のすぐ側には、同線敷設時及び昭和44年(1969)瀬田駅開業の際に境内地を提供した萱野神社がある。社伝によると雄略天皇六年(461)に創建されたという。祭神は開化天皇である。