flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

勝川大弘法

2012-03-16 00:00:07 | 大きな仏さま

(真言宗勝満山持明院崇彦寺 愛知県春日井市若草通)
 厳密には仏像ではないが、「大きな仏さま」カテゴリーとして分類した。
 勝川大弘法は、昭和3年(1928)に昭和天皇即位を記念して造立された、RC造り、高さ18mの像である。

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正養寺

2012-03-15 00:00:19 | ほとけのいおり

(曹洞宗大慈山正養寺 愛知県新城市杉山字野中 1982年7月)
 昭和53年に訪ねたとき、住職から杉山地区の話を聞き、その中で菅沼氏が居城した道目記城(現横浜ゴム道目記寮)と隣接する市々浪城(現千郷中学校付近)の間の畑で、農家の人が芋穴(サツマイモ等を貯蔵するために斜面に掘る穴)を掘っていたところ、甲冑を身に付けた遺体を見つけ、驚いた末埋め戻したという話をされていた。
 正養寺は杉山村森高にあった観音堂を守る形で、永正二年(1505)に開創されたのが始まりである。

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東寺

2012-03-14 00:00:55 | ほとけのいおり

(真言宗八幡山東寺 京都市南区九条町 世界文化遺産 国宝 国指定史跡)
 延暦十五年(796)平安京羅城門の東西に「東寺」と「西寺」が建立されたのが始まりとされる。(西寺は室町時代に廃寺か)弘仁十四年(823) 嵯峨天皇が空海に東寺を勅賜したことから、「教王護国寺」と称し真言密教の根本道場となった。文明十八年(1486)土一揆等による兵火で伽藍の大半を焼失したが、次第に復興されていった。
(小子坊)(国宝 金堂 慶長八年) (重文 南大門 慶長六年)(国宝 五重塔 寛永二十一年)

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肥後 白川

2012-03-13 00:00:27 | 水のほとり

 熊本市街を流れる白川は、標高1433mの阿蘇根子岳より発し、南郷谷を経て有明海に注ぐ全長74kmの一級河川である。訪れたこのときは、春の息吹きを感じられる光景が広がっていた。
   

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羽田

2012-03-12 00:00:32 | 漂い紀行

(東京都大田区羽田)
 かつて東京湾の漁場であったこの地は、今は日本の空の玄関として拡大し続けている。
    

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谷町筋

2012-03-11 00:00:09 | 街道・宿場町

(大阪市中央区谷町)
 天満橋から阿倍野筋に至る谷町筋は、大阪の南北の幹線道路である。谷町は上町台地の縁にあり、西側の急斜面を谷と見立て、谷町という地名が生まれたという。かつてはこの谷町筋と並行する形で、淀川渡辺津から始まる熊野街道(熊野古道)が往来していた。

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宮島 大願寺

2012-03-10 00:00:56 | ほとけのいおり

(真言宗亀居山放光院大願寺 広島県廿日市市宮島町)
 創立時期は明らかではないが、建仁年間(1201-33)に再興されたという、薬師如来を本尊とする寺院である。室町時代以降は厳島神社の普請奉行の役割を担い、現存する本堂と楼門は元禄時代のものである。明治の神仏判然令によって、厳島神社の祭神市杵嶋姫命の本地垂迹(ほんじすいじゃく:化身)として祀られていた弁財天がこの寺に移されている。

(伊藤博文の九本松)

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春日井 勝川 平成二十三年

2012-03-09 00:00:08 | 漂い紀行

(かちがわ 愛知県春日井市勝川町)
 前回訪れた平成2年は、宿舎に泊まる名古屋場所の力士が多く見かけられたときであった。今回訪れると、中央線勝川駅付近が高架化し、駅前が開発されていたが、離れたところで20年間暫定終点となっている城北線の接続が中断しており、整備途上感が否めなかった。
  
(城北線乗り入れ用スペース(高架中間)と城北線暫定終点(右奥))

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カテゴリー分け

2012-03-08 00:30:07 | お知らせ

カテゴリー 漂い紀行、城郭・城下町、いしにえびとの睡、かみのやしろ、ほとけのいおり の投稿済記事のうち、

孝霊天皇(大日本根子彦太瓊尊:おおやまとねこひこふとにのみこと)を祖とする氏族及び、孝霊第三皇子、彦狭嶋命(ひこさしまのみこと:伊予皇子)を祖とする次の三氏、
第一子を祖とする大宅氏(おおや):駿河国庵原
第二子を祖とする児島・三宅氏(こじま・みやけ):吉備国(備後)児島・三河国加茂
第三子、乎知命(小千御子:おちのみこと)を祖とする越智・河野氏(おち・こうの):伊予国高縄

の各氏に関連する記事カテゴリーを新たに設け、移します。

孝霊天皇流族関係記事

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杉山 竹生神社

2012-03-08 00:00:22 | かみのやしろ

(愛知県新城市杉山字行時 旧村社 1982年7月)
 地域の最高峰本宮山から続く丘陵地の末端に鎮座する。延喜二十二年(922)に天神社として創建し、大正時代に至り、隣接する徳定村熊野神社、山村竹生神社臼子村多芸神社を合祀して、竹生(たけお)神社と改称された。主神は伊邪那美神(いざなみのかみ)である。また、神社背後には古墳時代後期の堂塚古墳(円墳3基)がある。

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路電大津

2012-03-07 00:00:09 | RODEN-哀愁のRailway-

(京阪電気鉄道京津線・石山坂本線)
 石山寺~坂本間14.1kmの石山坂本線と、御陵~浜大津間7.4kmの京津線を総称し、大津線と呼ばれる。平成9年の京津線京都市営地下鉄東西線乗り入れまでは、京津三条から御陵を経て、浜大津までの11.3kmの地上路線であった。浜大津付近の併用軌道(路面電車)では地下鉄乗り入れの4両編成が走行しているが、併用軌道では1編成30m以下(小型連接車2両編成以下)と全国で規定されている中でのご当地特例である。
  

(地域関連記事:石山 大津京跡 近江神宮 南滋賀町廃寺 門前坂本 比叡山鉄道 比叡山東塔 西塔 慈眼堂 日吉東照宮 走井堂 日吉大社 大宮川 流護因社 坂本律院 膳所 旧大津公会堂 琵琶湖浜大津 宇治から大津へ 萱野神社

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練兵町

2012-03-06 00:00:17 | STRUCTURE-構造物残影-

(熊本市練兵町 早野ビル:国登録有形文化財)
 かつて陸軍山崎練兵場があった地である。その夜の練兵町を訪れた。


(関連記事:路電熊本 早野ビル

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北品川

2012-03-05 00:00:33 | 漂い紀行

(東京都品川区北品川)
 東五反田の東は北品川である。かつて山の手側は幕府の鷹狩休息所である品川御殿(御殿山)があり、低地には東海道の品川宿があった。

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上六

2012-03-04 00:00:38 | 漂い紀行

(うえろく 大阪市天王寺区上本町)
 大阪の人が上六と言えば、上本町六丁目のことであり、かつての近鉄起点駅である。亡き父もよく、この上六のことを言っていた。

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厳島神社

2012-03-03 00:00:12 | かみのやしろ

(伊都伎嶋神社 広島県廿日市市宮島町 世界文化遺産 国宝 重要文化財 名神大社 旧官幣中社)
 宮島港から海岸沿いの参道を進むと、赤い伽藍が見えてくる。厳島神社は 推古天皇元年(593)、佐伯鞍職が社殿造営の神託を受け、勅許を得て社殿を創建したのに始まるという。祭神は宗像三女神(市杵島姫命:いちきしまひめのみこと、田心姫命:たきりびめのみこと、湍津姫命:たぎつひめのみこと)であり、市杵島姫命は神仏習合時代に弁才天として本地垂迹(ほんじすいじゃく:化身)している。平安時代末期には平家一族の崇敬を受け、仁安三年(1168)平清盛が社殿を造営している。平家滅亡後も源氏をはじめとして時の権力者の崇敬を受けた。現在の社殿は、仁治年間(1240-43)以降に造営されたものである。戦国時代に入ると衰退するが、毛利元就が弘治元年(1555)の厳島の戦いで勝利し、元就が崇敬するようになり、大掛かりな社殿修復を行っている。
  (国重文 八代目大鳥居 明治8年)      (国宝 客神社) (国宝 祓殿・高舞台 室町時代)            

(国重文 長橋 桃山時代・鏡の池 左上 国重文 能舞台 延宝八年 右下)

  (国重文 反橋 弘治三年)   (西の松原から) (清盛神社) (国重文 天神社 弘治二年) (国重文 長橋 桃山時代) 

(関連記事:大願寺

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