(大阪駅北地区再開発事業 大阪市北区)
大阪駅の北側、梅田貨物駅及び隣接する工場の跡地を再開発する事業である。以前訪れたときは工事中であった大阪ステーションシティやグランフロント大阪が完成していた。 白浜の「くえどん」
バブル時代に再開発された梅田シティの一角、世界的名建築となっている梅田スカイビル 梅田貨物駅跡
(愛知県新城市富保)
大草村は明治11年(1878)の合併まで存在した村であるが、その後も上大草、下大草と呼ばれ残っている。
田口線跡路盤から上大草集落を望む
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(アルピコ交通 長野県松本市)
篠ノ井線松本と新島々を結ぶ14.4kmの路線である。当初は野麦峠の麓の宿場として栄えた稲核(いねこき)まで計画されたが、その後龍島、島々と計画が短縮され、松本電鉄島々線として昭和58年(1983)まで島々が終点であった。台風の被害、利用者の減少、上高地行き乗り換えバスの利便性等から1.3km手前の新島々(旧赤松)が終点となり、路線が現地に延びていないものの「上高地線」と改称され現在に至っている。現在でも開業当時の島々駅舎が新島々駅の近くに移築され、観光案内所として利用されている。前回訪れたときはまだ走っていた旧東急5000系も、旧京王井の頭線3000系に置き替わっていた。
廃線方向の留置線
(愛知県新城市 1988年7月30日)
豊川を境に旧南設楽郡と八名郡の集落を結ぶ早滝橋は、関東から九州へ続く断層である中央構造線上にあり、深い渓谷となっている。これより下流は弁天渕、鰹渕、桜渕といった水深が比較的深いところへと差し掛かっていく。
(大塔宮 神奈川県鎌倉市二階堂 旧官幤中社)
後醍醐天皇の子である護良親王を祀る鎌倉宮は、明治2年(1869)明治天皇の命により東光寺跡に創建されたものである。後醍醐天皇と護良親王は、鎌倉幕府を倒し建武中興を実現したが、足利尊氏との対立により親王は東光寺に幽閉され、建武二年(1335)足利直義の命によりこの地の領主淵辺義博に殺された。
(沖縄県名護市喜瀬 沖縄海岸国定公園)
恩納村から名護市にかけては、本島一大リゾート地帯である。この日はこの地に宿をとることにした。喜瀬(きせ)は元々「ちし」と呼ばれ、岸(海岸)が転訛したものとされる。
かりゆしビーチ
(北海道夕張市南部)
この六年間のことを思い出しつつ、秋の夕張南部を漂った。
帰りのことはあまり考えていなかったが、ふとバスの時刻表を見ると、夕張に着く前に帰りの最終バスは終わっていた。清水沢まで歩こうと夕張川に沿って下っていると、横にバスが止まった。往路の運転手さんであった。「どこまで行かれるのですか?乗ってください。」私はバスに乗り込み、車内でいろいろとお話をした。「乗客が減り、復路は回送運行となりました。先ほど南部で降りられたとき、誰か知り合いの家にでも泊まるのかと思いました。歩いたら大変なことですよ。」「どうですか以前来られたときと比べて、夕張はみるみるうちに衰退していってます。」
清水沢が近づいた。「回送バスなので、お代は要りません。お気をつけて」回送バスは定期路線バスに復すため、ターミナルに向かって去っていった。
(関連記事:夕張へ 夕張南部平成十九年 南大夕張駅跡 旧三菱南大夕張体育館 清水沢から夕張駅へ 夕張北炭)
(時宗西台山光照寺 神奈川県鎌倉市山ノ内)
六年振りのいにしえの都、鎌倉である。今回は河野氏族ゆかりの地を訪れた。弘安五年(1282) 一遍智真が鎌倉に入ろうとした際、巨福呂坂で北条時宗に阻止され、やむを得ず行く先を江ノ島に変え、途中で野宿したところが後に光照寺となるこの地であったとされる。近世には隣接する小袋谷(巨福呂谷)村に隠れキリシタンの集落が存在し、光照寺が庇護していたという。それは宗教に対して寛容な見方をしていた一遍ゆかりの寺であるからかもしれない。現存する本堂は安政六年(1859)の建造であり、山門は豊前岡藩江戸屋敷の菩提寺であった東渓院(廃寺)の門を移築したもので、欄間には藩主中川氏の家紋である「中川クルス(十字架)紋」が見られる。 中川クルス紋
折敷に三文字(河野氏族家紋・時宗宗紋)