(愛知県新城市西新町)
西新町の民家の間にある観音堂と十王堂である。かつてこの観音堂には尼僧が住していたという。堂宇の前には寛政七年(1795)に造られた火防の秋葉燈籠があって、元々町内の八幡社参道脇にあったが、参道拡幅のため井道の厳島神社に移された。然し、町内で火災が発生したため伊那街道脇に移したが、再び火災が発生した。その後、隣接する銀行の拡張によって三度現在地に移されたが、三度火災が発生し、それ以来移転しないようにしているという。また、六地蔵と共に並ぶ眼病を防ぐという石塔も、動かしてはならないと伝えられている。
(沖縄県那覇市通堂町)
国場川河口に位置する那覇港の埠頭の一つであり、先島、奄美、九州への貨客船が発着している。海岸という立地状態から、1975年築造の埠頭ビルの老朽感は否めなく、耐震的にも心配がある。
(関連記事:泊埠頭)
(おばたじょう 名古屋市守山区小幡字西城 1990年6月6日踏査)
住宅地の中に城跡がある。大永二年(1522)織田氏臣岡田重篤によって築城された。その後、松平清康が一時入城し、続いて織田信光の居城となった。天正十二年(1584)小牧長久手の戦いの際には、徳川家康が城を整備し利用している。 土塁
堀切
一部高架化された熊本駅の5番ホームからA列車で行こう号に乗る。僅か36.5kmを40分で走る特急の車両は、国鉄末期に製造されたキハ185系2両であり、JR四国で特急として使われていた日本車両製キハ185-4(熊本方向)と富士重工製キハ185-1012(三角方向)である。同車両は1992年JR九州に転属後、特急あそ号仕様にリニューアルされ、2004年からは九州横断特急となり、2011年からはA列車で行こう号仕様に再リニューアルされたものである。 熊本駅
有明海と島原半島
三角港へ
(愛知県豊川市千両町広貝津 1999年5月9日再踏査)
佐奈川上流、上千両杣坂近くの縄文遺跡である。私は1992年から1994年にかけて複数回踏査し、縄文晩期から鎌倉時代にかけての石器、土器、須恵器、灰釉陶器、中世陶器を採集したが、今回訪れてみると遺跡範囲内の斜面が削られており、更に遺跡北西側が豊川カントリークラブ千両コースの造成が始まっていた。
(Chiesa di San Giacomo dall'Orio イタリア共和国ヴェネト州ヴェネツィア県ヴェネツィア市サンタクローチェ)
ヴェネツィア本島サンタクローチェ地区の北東にあり、4世紀創立とされ、1255年にはビザンティン様式に再建された。その後、1532年に現在の姿に改修されている。
(沖縄県那覇市久米)
那覇港泊埠頭と那覇埠頭の間に位置する地区である。14世紀末、明の福建甫田から「閩(びん)人三十六姓」と呼ばれる人々が久米村(くにんだ)に移住してきた。これら三十六姓はその後、琉球王国の進貢使、通訳等の役職に就いている。 東壽寺跡
(守山古墳群 名古屋市守山区守山字東山 市指定史跡 1990年6月6日踏査)
5世紀末から6世紀初め頃に築かれた、全長63m,高さ5m,二段築成の前方後円墳である。外部施設に須恵質埴輪と周濠を持っている。瓢箪山の名は、前方後円墳の形が瓢箪に似ているところからきている。
(くまもとしんとしんぷらざ 熊本市西区春日)
以前訪れたときは開発中で、熊本駅が市中心地からやや離れていることもあり、お世辞にも政令指定都市を目指しているとは言えない駅周辺であったが、完成により玄関先の体裁は整ったといえる。「くまもと森都心」はA・B・Cの3棟からなり、この内A棟が情報交流施設くまもと森都心プラザである。施設はSRC造地下1階地上6階、延床面積16,800m2,事業費63億円であり、熊本駅側とペデストリアンデッキの繋がる2階は観光・郷土情報センター、3階・4階一部は図書館(3,488m2・ビジネス書を中心に蔵書23万点)及びビジネス支援センター、5階・6階部分はホール(350m2・489席)、多目的室(120m2)、6階は会議室(276m2)となっていて、全て指定管理者制度による民間委託である。 2009年時の看板
観光・郷土情報センター
(関連記事:くまもと森都心)
(愛知県新城市日吉字大坊 1999年5月5日)
豊川水系宇連川(うれがわ)大野頭首工で取水された豊川用水大野導水路6,286mの地点にあるのが、この東西分水工である。ここから豊川左岸の新城、一宮、豊橋、渥美半島を潤す東部幹線水路76.2kmと、豊川右岸、新城、一宮、豊川、音羽、御津、蒲郡を潤す西部幹線水路37.2km,及び東西幹線から分岐する支線水路556.7kmに水がそれぞれ供給される。 第七号隧道
東西分水工
東部幹線水路 塩沢隧道
西部幹線水路 大坊第一隧道
(Chiesa di San Simeone profeta イタリア共和国ヴェネト州ヴェネツィア県ヴェネツィア市サンタクローチェ)
967年の創建とされ、当時は木造藁葺きであったという。その後火災に遭い、1150年に石造で再建された。その後は19世紀に至るまで、何度となく修復、改築が施されている。
(D51形蒸気機関車 製造番号26×三等緩急車オハフ33-424 愛知県蒲郡市栄町)
1938年鉄道省浜松工場で製造された、D(動輪4軸)・テンダー式(炭水車連結)機関車である。浜松機関区配属の後、1945年多治見機関区、1950年名古屋機関区、1959年高山機関区、1969年稲沢第一機関区、1973年に中津川機関区で引退するまで、東海各地で活躍した。引退間もなくして蒲郡市に譲渡され、1979年蒲郡市郷土資料館(現蒲郡市博物館)開館時に屋外資料として展示され、オハフ33-2424と共に静態保存されている。オハフ33-2424は1947年日本車輌で製造され、福井区配置の後、1975年に米原客貨車区(滋賀県)に転属、1960年に電気暖房取付により車番が424から2424となった。1955年に松任工場(石川県)で更新工事を施され、1982年に廃車。D51-201と共にこの場所で保存された。因みにオハフのオは32.5t以上37.5t未満の大形車のオ、ハは普通車、フはブレーキ(車掌が操作する手ブレーキ装置のある車両:緩急車)を意味する。