(静岡県伊東市宇佐美)
伊東線宇佐美駅に降り立つ。衰退した駅前を突き当たると、相模湾となる。宇佐美は藤原氏族工藤氏が宇佐美荘を管理し宇佐美氏を名乗った地であり、良質な石材が取れることから江戸城の石垣にも使われた。
(池ノ原屋敷 愛知県田原市田原町中小路 市指定史跡 2005年6月14日)
寛政五年(1793)田原藩主三宅氏の臣として、江戸三宅坂の田原藩上屋敷で生まれた崋山は、上士の家であったが父定通が養子であり、また病弱であったこと、藩の財政が芳しくなくなったことから石高を四分の一に落とされ、渡辺家は困窮した。そのため崋山は絵を描いて生計を立て、田原藩においても財政の立て直しを行った。家老職を務めた崋山であったが、幕府を批判したことにより蟄居の身(蛮社の獄)となり、天保十二年(1841)藩への迷惑を悟った崋山は切腹。この地で最期を迎えた。
(#森岡の家 静岡県浜北市貴布祢 2005年6月8日)
江戸時代の豪農平野家の長屋門は江戸末期のものと推定されている。明治に入り林幹造が平野家に養子に入り、又十郎を名乗って静岡銀行の前身を築いた。平野家は平成5年に浜北市に土地家屋を寄贈し、以後市が管理しているようだが、有効活用されていないように感じる。近隣駅前に先頃開設された「なゆた浜北」に入る図書室や郷土資料室をこの敷地内で展開した方が自然の流れと感じるのだが。
(愛知県新城市八束穂 2005年6月9日)
信玄塚に程近い旧伊那街道筋に木造二階の建物がある。大正4年(1914)に開館した私立図書館であり、隣接していた信玄病院や東三電気株式会社、牧野紡績、劇場花菱座等を経営した牧野文斎が開設したものである。蔵書は二万冊余りを有し、無料で貸し出されたが、大正13年(1924)に閉館し、昭和12年(1937)蔵書が新城町立図書館に移管された。
(川崎市幸区堀川町)
元々は東芝小向工場内にあった東芝科学館を、川崎駅西の同社川崎事業所再開発に伴い、スマートコミュニティセンター(ラゾーナ川崎東芝ビル)2階に平成26年に設置された教育支援施設である。企業博物館であるため、同社の歴史が紹介されているが、人と科学のふれあいをコンセプトとした構成がなされている。
(東京都台東区浅草)
スカイツリーの見える隅田川畔にカフェがあった。川べりの治安をよくするためにできたようだ。昔大道芸をしていた店主と話をし、松竹所有の店でできて三年の店は、先月から店を預かることになった店主。浅草六区に移り住んで八年で以前は、あざみ野にいたとか。浅草の人と深い付き合いができたそうで、お店の壁を使って浅草のアーティストの作品を紹介する場所にしたいようだった。移り住んだばかりの頃は、大道芸をしながら絡まれたりケンカをしたりしたそうだが、今は地元の人の中にどっぷり浸かり、お互いが前向きになるように毎日交流しているようだ。
(つるが 福井県敦賀市 2005年9月1日)
敦賀の駅に降り立つ。街道、港湾、鉄道と交通の要所である敦賀は、崇神天皇五十八年(B.C.40)に意富加羅国(古代朝鮮)の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が笥飯浦(けひのうら:気比神宮付近)から上陸し、角鹿(つのが→つるが)の地名由来になったとされる。
(めいしょうせん 2005年7月11日)
紀勢線松阪駅から美杉村伊勢奥津駅までの43.5kmを結ぶ路線である。名張と松阪を結ぶ当初の目標は、桜井と名張、松阪を結ぶ桜松線であったが、昭和5年(1930)参宮急行電鉄(1944-近畿日本鉄道)が並行路線を開通させたため、目標を名張までとし、結果として伊勢奥津までにとどまることになった。収益は開業から現在まで芳しくないが、沿線道路未整備を理由に存続し続けている。