








(愛知県丹羽郡大口町小口宮之前 2008年3月29日)
小口城主織田広近は、文明七年(1475)嫡男寛広を兄敏広の養子としたため、弟寛近(津田武永)に家督を譲り、この地に隠居所萬好軒を建て閑居した。広近は「吾、死す後は冥福のためにこの隠所を禅刹とすべし」と言い、広近没後、織田敏定により妙徳寺が建立された。
(愛知県丹羽郡大口町余野 2008年3月29日)
参道を一つにした臨済宗の寺院が並ぶ。大龍山徳林寺は、『尾張志』に、「昔、当村ノ住士小池与八郎が妻山姥にて福富氏に射殺されし菩提のために建し寺なれは、俗に山姥寺といふ」と記している。鎌倉幕府御家人梶原景時臣福富国秀の子孫国平が本宮山(尾張富士)において村人に恐れられている山姥を退治したが、山姥はこの地に住む郷士小池与八郎の妻の化身であることが分かり、与八郎は供養のため、永仁元年(1293)真言宗の寺院として開基し、空母山徳蓮寺と称したという。その後荒廃したが、文明元年(1469)小口城主織田広近が再建し、改宗、寺号も改められている。そして、天正十二年(1584)小牧の戦いの際に兵火で焼失し、その後再建されている。また、織田広近が再興した際の中門と、犬山城第一黒門を移築した山門が残っている。
徳林寺は
福新山全徳寺は、永仁二年(1294)山姥を退治した福富国平 によって「全徳坊」として創建し、文明七年(1476)徳林寺住職によって「全徳庵」と改められ、同寺の末寺となっている。そして、徳林寺と同様に兵火に遭い焼失、慶長三年(1598)に再建された。その後、明治34年(1901)には徳林寺から分離して現在に至っている。



(愛知県丹羽郡扶桑町高雄 2008年3月29日)
戦国時代、頭に刀傷を負った僧兵がこの地で村人に助けられたが、「村人に頭部の災いが無いよう末代まで加護する」と言い残し絶命した。村人は僧兵の亡骸を葬り祠を建てた。以後、頭部に利益のある神社として現在に至っている。
(こっつようすい 愛知県丹羽郡扶桑町・犬山市 2008年3月29日)
慶安三年(1650)尾張藩によって通水した木津用水は、合瀬川とも呼ばれ、旧丹羽郡木津村(犬山市)で木曽川から取水されて、濃尾平野東部の灌漑用水として名古屋市北区で新川に合流する17.5kmの一級河川である。























長泉塚古墳は、県指定史跡に指定されている古墳時代中期の円墳で、直径25m,高さ4m,二段築成で周囲に周濠の痕跡がみられる。古墳の前には、「長泉大明神」「御嶽山大権現」の石碑があるが、以前は墳丘上に置かれていたものである。また、「長泉塚」の由来は、寛文年間(1661-73)この場所に長泉院九郎衛門という人物がおり、古墳に人を近づけなかったからという伝承による。















































































