先日、『死の家』(ドフトエフスキー・工藤精一郎訳)の文章に触れる機会があった。死刑宣告を受けたが流刑となってシベリアの「獄舎」で十年を暮らした「わたし」(著者)の目で、様子が描かれている。ほんの、ほんの一部分を味わった。
監獄には、「忍耐」を学び取る時間があり、学びとることのできる場所だ、と言っている。劣悪な環境の中で、「それにしても」との感慨で「人間は生きられるものだ!」「人間はどんなことにもでも慣れられる存在だ」「これが人間の最も適切な定義だと思う」、とある。
人間は強い、などという表現はやめよう。そうだろうか…。
このような極限の状態でも、人間の可能性を見出している?それが、小説の持つ、ある意味の“救い”になるの? はーて…。
どんな状況下でも慣れて生きられる…。う~~ん…。
一時代のブームとなった「カツマー」の、「なせば成る」式の処世術はどうも強すぎる。なんとかなるさ、ぐらいが身の丈に合い、ゆるゆると、それでもそれなりに力を尽くす。このくらいが私にはふさわしい。ガンガン迫られるとどんどん引く。困った困った。
こんなにモノが豊かな生活に慣れてしまった。狭い庵に暮らし、三升の米と一束の薪を備え、心豊かに書を読み詩や俳句を作る、良寛さんのような日々の暮らし。今の生活を一変させ、質素に資産や住まいをもたず、名誉にも背を向ける。できるだろうか。慣れは怖い。
少しの自己満足と、大きなゆるゆるで淡々としたたっぷりの時間と…こころ!とをもって生きることができたらいいか。あくせくせんと。人間はどんなことにも慣れることができるというではないの。それが難しい…
(うなぎやさんで落語、これなら新境地開拓・親しめる?)
監獄には、「忍耐」を学び取る時間があり、学びとることのできる場所だ、と言っている。劣悪な環境の中で、「それにしても」との感慨で「人間は生きられるものだ!」「人間はどんなことにもでも慣れられる存在だ」「これが人間の最も適切な定義だと思う」、とある。
人間は強い、などという表現はやめよう。そうだろうか…。
このような極限の状態でも、人間の可能性を見出している?それが、小説の持つ、ある意味の“救い”になるの? はーて…。
どんな状況下でも慣れて生きられる…。う~~ん…。
一時代のブームとなった「カツマー」の、「なせば成る」式の処世術はどうも強すぎる。なんとかなるさ、ぐらいが身の丈に合い、ゆるゆると、それでもそれなりに力を尽くす。このくらいが私にはふさわしい。ガンガン迫られるとどんどん引く。困った困った。
こんなにモノが豊かな生活に慣れてしまった。狭い庵に暮らし、三升の米と一束の薪を備え、心豊かに書を読み詩や俳句を作る、良寛さんのような日々の暮らし。今の生活を一変させ、質素に資産や住まいをもたず、名誉にも背を向ける。できるだろうか。慣れは怖い。
少しの自己満足と、大きなゆるゆるで淡々としたたっぷりの時間と…こころ!とをもって生きることができたらいいか。あくせくせんと。人間はどんなことにも慣れることができるというではないの。それが難しい…
(うなぎやさんで落語、これなら新境地開拓・親しめる?)