京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

 この「手」があった…

2009年11月12日 | 日々の暮らしの中で
岡本太郎氏が両親と渡仏した十八・九歳の頃。
初めて一人でルーブル美術館に見学に行った日、陳列された名画の数々に心を驚嘆させ歓喜させたと書いている。(『青春ピカソ』)
セザンヌの癖のあるタッチが嫌味で、反感を抱いていたという太郎氏。が、「こんな美しさを見たことがない」と立ち尽くし、絵の前で初めて泣いた事実に驚きながら、その日、身の内に潜む何ものかを激しく予感したのだそうだ。
当時のモンパルナッスの日本人画家たちの、仲間ぼめ・ケチをつける姿をうそ寒く感じ、型を追うことへの嘔吐感や懐疑心などに苦しんだ二年半ほどを経て、ラ・ポエッシー街での出会いを迎える。
ピカソの百号大の絵。涙がにじみ、これだ!と。
「この日こそは自分の画業を決定する運命的な日となった」と回想している。

ここまで数回読んだ。日があくので少し戻ってはここまで。ここから!なのに、なぜかここまで。最初の「ピカソ発見」の、本文12ページまで。つまり何度読んでも一向に進まない。
いつぞやどなたかが、積み重ねられた本の山を前に、読んでくれたら…と言っていたような。それだ!!誰か~、極力感情移入は避けて読んでほしい。音訳をベースに、少々の抑揚は欲しい。な~~に、自分でしたらいいのだと気付く。結構うまいしな…?音読しよう。

先日、野坂昭如氏の「火垂るの墓」を、一部分原文で読むことがあった。黙読してるとイラッと…、そこで思いついての音読が効を奏したのだ。独特の文体を感じながらなかなかであった。…ということで、古いテープとラジカセを用意し、やってみた。12ページまで進んだ。
やはり12ページだ。あー、…この先は明日から続くのさ。

自分で自分をあきらめてどうなるの。千年も前に式部さんだって言ってるじゃないの。
「わりなしや 人こそ人と 言はざらめ 自ら身をや 思ひ捨つべき」
(仕方ない、人が人並みに扱ってくれなくても。自分で自分を見捨てるものか)と。
太郎さんの芸術論、私の中に何か残るといいんだけど。無理…かもなあ。

            (写真は南天の実。難は天に)
コメント (8)
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