車の行き交う道路の狭い歩道スペースに、明らかに年上の先輩僧と小僧さん3人が立ちどまっていた。
白衣に墨染の衣をまとう先輩僧とは異なり3人は、そら色の作務衣?だけをまとう格好で あれって木綿? 足は素足に草鞋がけ。この季節にずいぶんと薄着ではないか。何よりも、すれ違いざまに見かけた彼らが中学生くらいの顔立ちだったことに、何やらハッとする自分がいた…。
ふと托鉢のことを思い出し、10月に購入した『雲水日記』のページを繰った。この本は病を得て47歳でこの世を去った著者が病床にある間に、東福寺での修行体験をもとに書き上げたもので、絵日記風の画文のかたちをとっている。1、6、3、8は托鉢の日だそうだが、この日は1でも6でも3でも8でもないし托鉢の格好でもなかった。
【貧乏してもコジキにはなりたくないという子供のころの夢とは裏腹に、初めて「東福寺僧」と染め抜いた看板袋をかけさせられ、雨雪を問わず素足に草鞋がけ、「ホォー」「ホォー」と連呼しつつ、路地から路地を引き回されて喜捨を求めて歩くことは、まだ生意気盛りの娑婆っ気が抵抗し、はずかしさいっぱいで満足な声は出ぬ。引手に叱られては吼えたてるが、彼らの流暢な追分調とはなんとほど遠い奇声であろう】
そうなんね…と読み進むと、古参新米の区別なく喜捨を受けていると有り難いもので、【いつかは心は大気のようにさわやかになり、卑下の心も増上慢も地に捨てて托鉢専一となる。・・・ただ合掌。なんのこだわりもなくやがて水の流れる心境になってゆく】と結ばれてあった。そうなんやー。この3人も、いずれそんな体験を重ねていくのかしら。家にいながら「おーっ」「おーっ」って聞こえてくる日がある。
「日天掃除(にってんそうじ)」と呼ぶ屋外の掃除は、雨降りでもない限り絶対欠かさない。世間の単なる労働ではなく、作務を通して「自己心内の無明煩悩の掃除をせよと戒める」「一日作さざれば一日食らわず」、か。それほどの根性を持ち得てない私は、ぼちぼち動かせてもらって正月支度が頭の片隅に…。
娘家族と行うクリスマスのプレゼント交換での品を用意した。どういうわけか、引いた名は2年続きでJessieだった。カーラジオからはクリスマスソングが流れる。孫のTylerは今日、教会のクリスマス会に参加するんだって。