聴講券が届き昨日22日、龍谷大学大宮学舎140周年記念シンポジウム開催の会場に出かけた。
大学院で奈良仏教史を専門にされていた澤田瞳子さん。でも、資料を集め読みこむのに9割、残る1割のところで結論を導く研究者には自分は向かなかった。そうではなく、資料から興味のタネを見つけると6割のところで結論に向かってはしごをかけて妄想し、…ことがあっただろう、あったはずだ、と想像力を発揮するタイプだとお話で、それが歴史小説家に転向された経緯のようでもあった。
歴史小説はエンターテイメントだから「ああ、面白かった」と読み終えてくれたらよい。その後に、例えば仏師・定朝をもっと知りたいと新書本や専門書に手を伸ばしてもらえるなら、やったー!の嬉しさだと。
「物語りの読みどころは?」の問いかけに、「どうたたむか、落とすか。広げ、まとめる、決着の仕方に心ひかれる」「史実の絡め方に気づかされて面白い」と話された。歴史を知っていると楽しい読みが広がり、こういうことが言えるのだと印象に残った。
作品世界に入り込み、あたかもそれが史実のように錯覚する。いえ、史実云々など念頭にはないのだ。どっぷりつかって登場人物に感情移入し、一緒に同時代を生きる。読者にしたら、そんな本との出会いこそ貴重な体験である。
「歴史は今を考える立脚点になっている」「人生の喜びは伏線回収にあるかもしれませんね」「今の物語はあらすじで構成され、細部を省きわかり易くまとめてしまっている。史実をプラスすることが要る」とか「人が共有できる知性が落ちている」など数々の指摘があった。
自分の考えを明確に示される、その歯切れの良いこと。若くて自信に満ちていた。根底に専門分野が、強い分野があるということは誰にとってもひとつの強みだろう。
昨年読んだ『与楽の飯 東大寺造仏所 炊屋私記』に話が及んで、ちょっとわくわくっと身を乗り出してはみたが、ほんの1分ほどだったか…。『穢土荘厳』(杉本苑子)でも描かれる大仏造立の舞台。役夫たちを賄う炊事場での人の心の温かさの描写はある。作品の視点は違えど、歴史の狭間に、変わらぬものがあるということかしら…。