
5歳の女の子みいちゃんがお母さんにお使いを頼まれる『はじめてのおつかい』は、子供たちと繰り返し読んだ絵本の一冊でした。
1月上旬、「絵本の世界に父親の登場がない」「古い価値観の刷り込みが心配」「名作だから安心、ではない」などといった指摘とともに、絵本の多様な読み方を考えさせられる記事がありました。
『はじめてのおつかい』は書庫に下げたというところもあって、正直なところ、それほどまでに「お薦めできない」作品だとは思いもしなかったことです。「ジェンダー(文化的・社会的性別)の視点から」でした。つまり、性別による役割分業、男の子女の子のイメージ、などの固定化とか。
一人でお使いに出るみいちゃんの不安や頑張り、目的を果たせた喜び、ほめてもらう嬉しさ等々、一緒に疑似体験しながら子供の心に何かが残れば、それは形のない宝物となります。絵本は読み手の自由な想像力、解釈、受け止め方があってよいのでは。一つの読みしかできない作品は、イメージが乏しいと思うのです。長く読み継がれてきたお話の世界を、そこに紡がれた言葉を、どう読むか。
『はじめてのおつかい』では、もっと純粋に、みいちゃんの心細さや安堵感、喜びの心のそばにいて、読み継ぎたい作品だと思うのです。
この作品にジェンダー、ジェンダー…。指摘を理解はしても、すべてに共感できるとはいいがたい。あまり声高に言いたくありませんのですが、こんなこと思うのはとりもなおさず私の価値観が古いのですかね…。とばかりは思っていないのですが。だからそれがやっぱり古い?


もう娘家族の所に送ることもないだろうと、昨年末に『ちびくろサンボ』を処分してしまいました。これはサンボ少年の呼称が「黒人差別」に当たると、ずいぶん前に指摘があり、すでに絶版です。
サンボから取り上げた服や傘を、互いに奪い合うことになった4頭のトラたち。〈…トラはぐるぐるぐるぐるまわって、とけてバターになっちゃいました。お母さんにパンケーキを作ってもらい、サンボは11枚(?だったかな)も食べました〉、とかで終わったような。擦り切れるほど読んだ一冊でした。
点訳時、時流に乗るばかりでなく選択眼もきちんと持ち合わせたいと思って…。
(ゴールドコーストで休暇を楽しむ娘家族。コロナ感染拡大で24日の始業は延期だそうな)