知人から電話がかかってきた。今朝母親が亡くなったという知らせだった。
白い萩の花がこぼれ、芒の穂が秋風になびく。うつろう風情の美しさにひたっているときだった。
はるかに昔。道で出会って立ち話をしているとき、「あがってスイカを食べていきなさい」と誘ってくれたことがった。「家で食べているか?」と聞かれたことを覚えている。嫁いだ翌年ぐらいだったろうか。義母が畑で作ったスイカを遠慮なく食べていたことをタミさんは知らなかったのだ。
うつろいは、まさに人生の真髄。また一人消えていった。人は死んだらどこへ行くのだろうか。
良い日だなあと思っていたのに、なにか寂しさを感じる日になった。
芒澄む人を遠しとおもへる日 岸秋渓子
今年になって友人や知人何人かが
彼岸の人となりました。
私の年齢から珍しいことではないのですが。
揺れる芒が淋しさをいや増します。
亡と言う文字が入っていて、?と思いました。
調べてみたいと思います。
岸秋渓子 >いつの時代?男性?女性?と検索しているうちに
なんとKeiさんのブログに行き当たりました。
で、まだわかりません。
夕日に輝く芒も美しいですね。
岸秋渓子(シュウケイシ)、九州の俳句界のリーダーとか?
私も詳しくはわかっておりません。調べてみます。
頂くたびに、その人とのつながりや遠い思い出に重なって淋しさ一入です。
ご冥福をお祈りしながら、もう少し生かせて下さい、などと願いたくなります。
秋風に揺れる芒の穂、微妙ですね。
こんなスイカの思い出まで残してくださった方です。
もういないんだという思いは無常感を強くしますね。
いつ何があるかわかりません。
昔の武蔵野は萱原で、そのすすき原を野焼きし放牧することで保ってきた武蔵人の中から
やがて騎馬の武士が登場し、源氏や平家になっていったのだそうです。
坪内稔典さんが書いておられました。