何度目になりますか。等伯さん、またお訪ねいたしました。という感じで、桃山時代を代表する画家・長谷川等伯が描いた「佛涅槃図」の真筆を拝見に本法寺を訪ねた。
1月28日、あのときはレプリカ承知で拝見にうかがったが、年一度の機会には改めてという思いがあった。等伯筆「波龍図」も公開されている。
26歳だった息子の久蔵が急死した。等伯56歳。
秀吉が朝鮮出兵に合わせて築いていた名護屋城で、久蔵は狩野派の絵師たちと大広間の絵を描いているはずだった。にもかかわらず、持ち場ではない天守閣の外壁に絵を描いていて、足場が崩れた。事故死ではない…、と余地を残して『等伯』(安部龍太郎)では描かれた。
才ある息子への大きな期待。この日は公開に合わせて、ボランティアガイド氏の説明を受けることができたが、死の真相に触れる記録は一切ないそうだ。
当時の本法寺住職・日通上人は、絵筆も持たなくなった等伯に命の輪廻転生を説いたという。
五木寛之氏が『百寺巡礼』で書かれている。
【等伯はその寂しさやむなしさを信仰というところに投げかけて、この巨大な絵を描くことに没頭したのだと思う。衆生に対して、なにかを語りかけようとしたのではないか。日蓮宗の信者は、社会に向けて自分のほうからメッセージを送る、という意識を持っていることが多いようだ。賢治にしてもそうで…。】
縦10m、横6m。レプリカと真筆の区別がつくはずはないが、巨大さには目を見張る。
もっとも、更に縦に1m大きいのが室町初期の画僧明兆が描いた東福寺の涅槃像で、釈迦の臨終を嘆く種々の動物の中に猫も描かれている。
等伯はコリー犬を描き込んだ。家族で堺に暮らした時期がありそうで、そこで見かけたのではと想像される。
薄い和紙を何枚も何枚も張り重ねた上に描き、周囲は表装ではなく、牡丹の絵が描かれて仕上げられている。等伯62歳。
絵図の右下には、自分が雪舟より5代目の画家であることを書き込み、また、本法寺に収める前に御所へと持参するなど、自らの名を世にだそうとする戦略もなかなかのもの、とガイド氏。
左の沙羅双樹の根元には、やつれた表情で座り込む等伯の姿がある。釈迦は久蔵ではないか…。
ボランティア氏は、「闇の絵師」が面白かったとお話だった。作者は「さわだ?」「さわだ?」とつぶやく。
帰宅後ネットで検索してみると、澤田ふじ子さんに『闇の絵巻』というのがあった。
本阿弥光悦が唯一作庭したという巴の庭。半円を二つ組み合わせた円形石で「日」、切り石による十角形の「蓮」池で、「日蓮」が表現されている。
是非見てみたいとものの一つです。
京都は、何日あっても足りませんね。😃
ガイドさんのおかげもあって、
等伯の「物語」と「史実」とを思い合わせながら見上げておりました。
記述がなくてわからない十数年間も、想像が広がります。
雪の朝でした。ふわふわとした雪が今も時おり…。
縦10m 横6m・・の絵画を拝見出来る、流石に京都ですね。
色々な思いがおありと思いますが、その場での感想は
一生の思い出のになりますね。
しっかりと説明を聞き、ご自分でも色々な本を読まれての感想・・
絵師と言う職業・・もの凄いエネルギーを蓄えておられますね。
ふさわしいところだと思いました。
この種の展覧会も多いのでしょう?
当時の絵師たちは都で鎬を削ったのでしょうね
Keiさんのおかげで澤田瞳子さんの「若冲」はじめ
有名絵師たちの本を読むことができました
狩野永徳も長谷川等伯も覚えました。
私一人では近づかなかった範疇です。
僅かですが知識の幅が広がりました。感謝!
「絵師と言う職業・・もの凄いエネルギーを蓄えて」
そうなんでしょうね。
息子の死、その前には親交があっただろう利休の死。妻もなくしていますし…
すべてのエネルギーをかけて絵に向かい菩提を弔い、なおかつ
狩野派全盛の中に割り込んでいくためには知恵も絞り、と。
どの時代も自己アピールは大変ですね。
レプリカと真筆との区別などわかりませんから、まあいいかな?という思いがしだしていました。
ガイドさんがいて下さったことが有難かったです。
いろいろな公開や展覧会は多いと思いますが、
肝心な私の興味関心が狭いのがいけません。
やはり物語は物語で、史実を知ることの面白さもありますね。
ですが物語の世界をどっぷり楽しみたいとも思うのです。
雪舟・若冲、まもなく展覧会が始まります。