梅雨晴れ間 無沙汰の寺社を回りけり
無沙汰も無沙汰、40年を優に越す時を経て東山七条、その東側に広がる智積院(ちしゃくいん)を訪れた。
真言宗智山派の総本山で全国に3000の末寺があるのだとか。
秀吉が亡くなった嫡男・鶴松を弔うために祥雲寺という寺を建てたのが始まりで、家康が豊臣家を滅ぼした後、寄進したのが現在の智積院。
本堂や客殿などに飾られていた障壁画は、何度も大火に見舞われて多くを焼失したという。
この日の目的は、幸運にも運び出されて保存された長谷川等伯、嫡男の久蔵(26歳で早世)、等伯一門の障壁画を宝物館で拝見することにあった。
地元紙連載の「文学の舞台を行く-50」で『等伯』(安部龍太郎)が取り上げられたのを読み、なにやら心惹かれ、こうしてさっと行動に移せたなんて、まことにしなやかな心の〇歳(と妙さんに褒めていただけそう -と自画自賛)。
(入館時のパンフレットより)
好奇心はあっても、あれこれと無理して間口を広げる力もなく、本当に狭い穴からのぞく自分の興味関心事から入っていく人間で、好き嫌い、いや、好みがはっきりしているタイプで…。ただまあ、抜けた先には何か新たなものが待つこともあって、枝葉が茂る。そうやって根から得る滋養を行き渡らせたい…。
とにかく書評や案内にとどまらず自分で読んで、心で考え、作品と対話してみることでしか始まらない。
歴史の授業で習っただけの「等伯」から「読んでごらんなさい」と促された『等伯』へ。何年たったかしら、まずはこれが私の一歩。
そのうち本を探して、そうそう本法寺さんで等伯像と出会ってくることも忘れないでおこう。
無沙汰も無沙汰、40年を優に越す時を経て東山七条、その東側に広がる智積院(ちしゃくいん)を訪れた。
真言宗智山派の総本山で全国に3000の末寺があるのだとか。
秀吉が亡くなった嫡男・鶴松を弔うために祥雲寺という寺を建てたのが始まりで、家康が豊臣家を滅ぼした後、寄進したのが現在の智積院。
本堂や客殿などに飾られていた障壁画は、何度も大火に見舞われて多くを焼失したという。
この日の目的は、幸運にも運び出されて保存された長谷川等伯、嫡男の久蔵(26歳で早世)、等伯一門の障壁画を宝物館で拝見することにあった。
地元紙連載の「文学の舞台を行く-50」で『等伯』(安部龍太郎)が取り上げられたのを読み、なにやら心惹かれ、こうしてさっと行動に移せたなんて、まことにしなやかな心の〇歳(と妙さんに褒めていただけそう -と自画自賛)。
(入館時のパンフレットより)
好奇心はあっても、あれこれと無理して間口を広げる力もなく、本当に狭い穴からのぞく自分の興味関心事から入っていく人間で、好き嫌い、いや、好みがはっきりしているタイプで…。ただまあ、抜けた先には何か新たなものが待つこともあって、枝葉が茂る。そうやって根から得る滋養を行き渡らせたい…。
とにかく書評や案内にとどまらず自分で読んで、心で考え、作品と対話してみることでしか始まらない。
歴史の授業で習っただけの「等伯」から「読んでごらんなさい」と促された『等伯』へ。何年たったかしら、まずはこれが私の一歩。
そのうち本を探して、そうそう本法寺さんで等伯像と出会ってくることも忘れないでおこう。
関心が行くようになりました。感謝です。
澤田瞳子さんもその一つです。
祥雲寺の軒先にはためいている五色の幕>
昔中国の奥地へ行きました。
周りはほぼチベット族、漢族は上層部の役人だけ。
その地のお寺で五色の旗を随所で見ました
お寺以外の道々にも至る所ではためいていました。
仏教ですからチベットとついてはいますが
日本に伝来した仏教ともともと関係はあるのでしょう。
お釈迦様の教えを表しているとか?
チベット族は衣装もですがカラフルがあふれている感じですが
日本のお寺に五色の幕は何か違和感を感じます。
真宗でも法要ごとでは用いていますし、私はこれまで意識することなく来てしまいました。
弘法大師ご誕生1250年慶讃法要をお勤めになるようでした。
この日もたくさんの僧侶の姿がありました。
絵師より仏師で、定朝、運慶に快慶などは小説でも楽しみました。
澤田さんの『若沖』を未読のままおいています。
そうするうちに乙川優三郎さんの『麗しき果実』に気持ち気持ちは向かい、
しかしいずれも後回しです。