京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

自信は慢心

2019年09月14日 | 講座・講演

今日は昨夜よりも輝いて満月が上がっている。暑さが戻って、涼しさも一日喜びで終わったが、山の上方、ネオンの輝きが目に入らない闇の中に見る月はくっきりと際立つ。最高に素敵な演出だ。



中外日報社の宗教文化講座に参加し、「山修行の果(はて)とは -山からの教訓-」と題した聖護院門跡門主・宮城泰年氏のお話を聞いた。
聖護院は本山修験宗総本山で、山伏の寺。山修行という肉体の訓練を通して心を鍛え、法力、験力を身につける道が修験道であり、自然の声を聞き、匂いをかぎ、ひたすら歩くという単純な世界に心は次第に研ぎ澄まされていく、とお話に。
1931年生まれ88歳におなりだが、1時間半の講演にもすくっと姿勢よく立ち続けられるのはさすがだと思えた。 昭和13年、13歳の冬に得度。僧侶の道も一生の世界、ならば最短で社会を見ようと大学卒業後は4年間新聞記者として働いたそうだ。

修行距離が約100キロに及ぶという「大峰奥駈修行」の行程に触れ、熊野本宮から吉野までの大峰山脈に設けられた75の霊所をたどる「靡(なび)き道」は先達が歩いて歩いて、何百年とかけて作った道であった。 そこに自分が新しい道を作ろうと試みたときがある。50歳のときと言われたか…。自分ならできると思ったそうだ。
ところが、45度ほどの斜面を転げ落ちた。途中、眼鏡と腕時計を残しながら身体は投げ出され二股の木に引っかかった。自信は慢心でしかなかった。自信は慢心に発している、と話された。 生きていたから「精進していたから命拾いをした」と言われても、死んでいたら「精進が足りなかった」となるのだろう。

つまり、生死は仏云々ではなく縁のもので、たまたま助かってこうして生きているのだ、と。「えにしですな」 また、修行の途中で講仲間の一人が姿を消したことがあった。「あの人には良くこういうことがある」という仲間の話が先入観となり、捜索が遅れてしまい8日後に首をつって死んでいるのを発見した。人の言葉にとらわれず、もっと早く探していたらと反省したと…。 伝統を守り、先達を敬う心を問い直し、山伏法度を守らねばならない修行の道での失敗談も、私たちによき教訓を与えてくれているのを思った。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 月の美しい夜 | トップ | 八歳に »

コメントを投稿

講座・講演」カテゴリの最新記事