京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

比叡山千日回峯行写真展

2017年04月13日 | 展覧会

実は、中外日報社の宗教文化講座第2回目になる来月には、千日回峯行者・光永覚道氏の「千日回峯行のこころ」と題したお話が予定されています。すでに受講票も手元にあって心待ちにしているところに、この新聞記事が目に留まりました。光永覚道氏は光永圓道大阿闍梨の師であります。

「行は険しい山の道を歩くというイメージが強いが、祈りの部分を意識して撮影した」、と写真家の内田氏の言葉もありますが、『比叡山・千日回峯行酒井雄哉画賛集 ただ自然に』を開いてみました。、
〈回峯行とは歩く行だけではなく、むしろ、礼拝行である〉
「ひたすら礼拝して回る日々を過ごしてきた。口先でも頭の中だけでもなく、体をもって一生懸命に祈ること。小さな野の花をはじめとして、自分を取り巻くすべてのものに祈りをもって接する。これもまた行なのだ」「仏に華をたてまつれ」などと記されています。
         

会場の入り口に、B5サイズほどの小さな説明が貼られてました。印刷物はありませんが写真に撮っても構わない、と言ってもらえて…。それによると、
行者の「頭に戴く『お笠』は未敷蓮華(みふれんげ。蕾のままの蓮の葉を象り、檜で網代に編まれている)を象り、千日回峯行者でも第四百日目に入ってからでないと頭に戴くことは許されず、大切に手に持って歩く」「すべて白一色で整えられた行者の装束は死装束を意味し、お笠の中には三途の川の通行手形の六文銭がつけられている」のだそうです。

白い1輪の山百合が圓道さんの「お笠」に挿された写真があって、ひどく心に残った1枚です。斜め後方にはスクッと伸びた2輪が映っていました。厳しい行のさなかにあって手折って挿す、「仏に華をたてまつ」る行為を想像していました。

「不退の行」「捨身の行」とも言われ、断念するときは、自ら命を絶つ定めとなっているという回峯行は、自分のためではなく、衆生済度を願う「化他行(けたぎょう)」であるそうで、その真意を覚道氏がお話下さるというので楽しみにしているわけです。


コメント (8)
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