一歩外に出れば、そこかしこが花見の場所だった。ようやく喧噪も落ち着いて、静かに自分を取り戻す時間になってきた。
さくらさくらさくら咲き初め咲き終わりなにもなかったような公園 俵 万智
この1年、光田和伸先生の『徒然草』その真実」を受講することにした。昨日がその1回目だった。
書くことが許されない。しかし、どうしても書いておきたいことがあった。当時、男性が交際していた(結婚しなかった、できなかった)女性のことを書くのはルール違反だったから、途中で断筆。10年以上の空白を置いて、女性の菩提を弔ってから一気に書き出したのではないか。作品の執筆時期、構成を解説された。
仏に仕える身で「つれづれ」とは。隠者の生活に入ってみるが仏の道には入りきれず、することもなく、申し訳ないが退屈だ、と記す。隠者としては失格、恥ずかしい告白である。人と話をすることが恋しい…。隠者文学に「つれづれ」という言葉は用いない。終段を書き終えてからの序段は、驚くべき書き出しになっている、と。
「自分でも理解できないくらい、あほみたいな本です(ものぐるほしい本です)。仏に向かうものでなく、文学書でもなく、筋道だってもいませんし、何の役に立つのでしょうね」。謙遜であって謙遜ではない。本心ではなく、含みのある言葉、「あやしふこそものぐるほしけれ」。言葉がどういう含みを持っているか、きちんと理解することを求められる。
「恋物語が完成している」という見地から読み方を説いてくださることになるのだろう。著書『徒然草 恋の隠し方』のタイトルに見られるように、テーマは「恋の隠し方」だろうか。書きたい話をどのよう混ぜ込んで、話の中に置いてあるか。
聞き漏らすまいとメモを取り続け、何やら今日は朝から肩が凝って困った。力はいり過ぎたのかしら…。
「若葉の梢涼しげに茂りゆくほどこそ、世のあはれも、人の恋しさもまされ」(『徒然草』第19段)