今日は、浜松の主だった2車をご紹介いたします。
飯田線の旧型国電が終焉を迎える頃、徐々に運用から外れていく中で、運用から外れた列車たちは解体のために浜松工場へと旅立ちました。
飯田線の撮影に訪れたとき、一番好きだったクモハ53007が既に運用からはずれていたため、伊那松島機関区や天竜峡、中部天竜そして豊川にある留置線を探して次々と南下していきました。結果として彼を発見することが出来ず、思い切って浜松へ向かうことにしました。
案の定、浜松工場に隣接する留置線には、クモハ53007を始め、飯田線の運用から外れた戦前型国電や一足先に廃車となった80系、EF581や5までもが整然と並んで留置されていました。
一通り撮影した後、工場の回りを徘徊していると、ある物体を見つけました。そう、それが、かつて飯田線の貨物列車の牽引に活躍したED182でした。
昭和58年6月29日 浜松工場にて(敷地外から撮影)
このED18の現役時代は飯田線には来たことがありませんので、実物を見るのはもちろん初めてでした。工場の入換用機械として使用されていることは雑誌か何かで見たことはあったのですが。なかなか趣のあるスタイルですね。感動しました。ただ、この錆びの浮き具合からして、使ってるようには見えませんでした。機械扱いなのに、ナンバープレートをつけたままなのは、工場に働く人の思い入れの表れだと思います。
そして、移動中にまた珍客が!クモヤ22112です。
昭和58年6月29日 浜松工場附近にて
クモヤ90はそれなりに好きな車両なのですが、クモヤ22のリベットだらけの身体にこの顔はどうも好きになれませんでした。が、この頃でも既に17m国電は貴重な存在でしたし、関東に住んでいるとなかなかクモヤ22型にはお目にかかれないので、取り敢えず撮影しておきました。
この2台、この当時はもちろん現役の入換車でした。ともに人生最後の地味な奉公を地道に行っていたのですが、まさか2台とも本線営業車に返り咲くとは夢にも思っていませんでした。近年、さすがに老朽化で再度廃車になってしまいましたが、戦前生まれの彼らが再び大手を振って本線を走ることができ、最高に幸せ者だったと思います。
飯田線の旧型国電が終焉を迎える頃、徐々に運用から外れていく中で、運用から外れた列車たちは解体のために浜松工場へと旅立ちました。
飯田線の撮影に訪れたとき、一番好きだったクモハ53007が既に運用からはずれていたため、伊那松島機関区や天竜峡、中部天竜そして豊川にある留置線を探して次々と南下していきました。結果として彼を発見することが出来ず、思い切って浜松へ向かうことにしました。
案の定、浜松工場に隣接する留置線には、クモハ53007を始め、飯田線の運用から外れた戦前型国電や一足先に廃車となった80系、EF581や5までもが整然と並んで留置されていました。
一通り撮影した後、工場の回りを徘徊していると、ある物体を見つけました。そう、それが、かつて飯田線の貨物列車の牽引に活躍したED182でした。
昭和58年6月29日 浜松工場にて(敷地外から撮影)
このED18の現役時代は飯田線には来たことがありませんので、実物を見るのはもちろん初めてでした。工場の入換用機械として使用されていることは雑誌か何かで見たことはあったのですが。なかなか趣のあるスタイルですね。感動しました。ただ、この錆びの浮き具合からして、使ってるようには見えませんでした。機械扱いなのに、ナンバープレートをつけたままなのは、工場に働く人の思い入れの表れだと思います。
そして、移動中にまた珍客が!クモヤ22112です。
昭和58年6月29日 浜松工場附近にて
クモヤ90はそれなりに好きな車両なのですが、クモヤ22のリベットだらけの身体にこの顔はどうも好きになれませんでした。が、この頃でも既に17m国電は貴重な存在でしたし、関東に住んでいるとなかなかクモヤ22型にはお目にかかれないので、取り敢えず撮影しておきました。
この2台、この当時はもちろん現役の入換車でした。ともに人生最後の地味な奉公を地道に行っていたのですが、まさか2台とも本線営業車に返り咲くとは夢にも思っていませんでした。近年、さすがに老朽化で再度廃車になってしまいましたが、戦前生まれの彼らが再び大手を振って本線を走ることができ、最高に幸せ者だったと思います。