こんばんわ。
Fe4事務局長のlineさんのブログで、C11が現役だった当時の国鉄日中線の記事
http://diary.jp.aol.com/qegbrh4/186.html がアップされたことに刺激されまして、過去に1度だけ行ったことのある日中線の写真をアップしたくなり、急遽特集を組みました。
日中線の写真はリバーサルのみで撮影していたのですが、今から約10年前、非常に不幸な出来事があり、水没したスライドフィルムを放置したままとなっておりました。
そのとき約200コマほどのスライドフィルムをやむを得ず廃棄してしまったのですが、この大切な記録を諦めきれずにそのまま放置していました。画質がかなりおかしくなってはいるものの、ブログアップ程度では何とか使えそうなので、昨日思い切ってスキャニングしてみました。
国鉄日中線は、磐越西線喜多方駅から分岐するローカル線で、朝、午後、夕方に各1往復の計3往復のみ設定されていた超赤字ローカル線として有名でした。おそらく政治的背景から線路が敷かれたのでしょうが、私が1往復乗ったときも殆どが鉄で、地元で乗降する人は全くと言って良いほどいませんでした。おりしも春休みの期間でしたので、高校がお休み。普段は高校生くらいしか利用者がいないのでしょう。
3往復とも客車列車による運行で、無煙化後はDE10型がその任に当たっていました。
上野からの夜行急行「ばんだい」に接続し、始発列車は会津若松から直通で終点熱塩まで運転されます。私もこのセオリーに則り、季節列車の夜行「ばんだい」で日中線を目指しました。
昭和57年3月21日 日中線 熱塩駅にて
編成は、DE1039+オハフ613034+オハ612926で機関車込みの3両編成です。客車は2両ですが緩急車は1両しか連結されておらず、後部標識灯が1個付けられる純然たるローカル線を醸し出しています。
しかし、この日中線はたったこれだけの運転本数、両数なのになぜ気動車化されなかったのが不思議です。磐越西線は圧倒的に客車列車が多かったのは事実ですが、気動車列車もそれなりの本数があったので、乗務員が手配できないわけでも無い筈です。このあたりは組合との確執があったのではないかなどと想像してしまいます。
最後の写真をご覧いただけるとお判りと思いますが、確かこの日中線はこの山を越えなくては山形方面へ抜けられません。殆ど乗客が望めないような状況の中で、どれだけ資金をつぎ込むことになるのか、結果は考えるまでも無く「無駄」であることは誰にでも想像できましょう。
なくなるべくしてなくなってしまった日中線。無くすべきではないという意見も多々あると思いますが、作るべきではなかった路線が全国にどれだけあったことでしょうか。無くしてしまうことを罪に感じることもありますが、作ることが罪になったケースはこの日中線だけではない筈です。