雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

官の司に

2014-10-12 11:00:20 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第百二十六段  官の司に

二月、官の司に、定考といふことすなる。なにごとにかあらむ、孔子(クジ)など掛けたてまつりて、することなるべし。聡明とて、主上にも宮にも、あやしきもののかたなど、土器(カワラケ)に盛りて進(マイ)らす。

頭弁の御もとより、主殿寮、絵などやうなるものを、白き色紙につつみて、梅の花のいみじう咲きたるにつけて、持て来たり。
「絵にやあらむ」と、いそぎ取り入れて見れば、餅餤(ヘイダン)といふものを、二つ並べてつつみたるなりけり。
     (以下割愛)


二月、太政官の役所で、定考(ジョウコウ)というものをするらしいのです。一体どういうものなのかしら、多分、孔子の絵像などを掛けたてまつってすることなのでしょう。聡明(ソウメ・釈奠という行事の供え物のことで、鹿や猪の干し肉、あるいは、米や餅など)ということで、天皇も中宮様も、あやしげなものを形どったものなどを、土器に盛ってお供えされます。

頭弁(トウノベン・太政官職で蔵人頭を兼ねている者。ここでは藤原行成)のもとより、主殿寮の官人が絵の巻物のようなものを、白い紙に包んで、たくさん花を付けている梅の枝に付けて、持ってきました。
「どうも絵ではないらしい」と、急いで受け取って見てみますと、餅餤(長さ四寸、直径一寸ほどの筒状の唐菓子)という物を、二つ並べて包んでいたのですよ。

添えてある立文(タテブミ・正式の書状の形式)には、解文(ゲモン・下級官庁から太政官や上級官庁に上申する公文書)らしいものが、
  進上。
  餅餤一包、
  仍例進上如件。(レイニヨッテ シンジョウ クダンノゴトシ)
  別当少納言殿。
とあり、月日が書いてあって、差出人は「美麻那成行」とあり、その次に、
  この男は、自ら参りたいと思ったのですが、昼間は容貌醜いので、遠慮いたしました。
と、とても滑稽に書いてありました。
(別当少納言とあるのは、清少納言を太政官の役人のように見たてたもの。「美麻那成行」とあるのは、頭弁である藤原行成の下僚に「美麻那延政」という人物がおり、その遠祖は役小角であり、その伝説に登場する一言主神は、その醜貌を恥じて昼は顔を見せず夜働いたといわれている。その伝説を借り、名前も行成を逆転させている)

中宮様のもとに参り、お見せいたしますと、
「うまく書いたものね。しゃれた趣向だこと」
などと、お褒めになられて、解文はお召し上げになられました。
「返事をどうすればいいのでしょう。このように、餅餤などを持ってくるものに、ご祝儀なんかを渡すものなのかしら。作法を知っている者がいればなあ」
などと言っているのを、中宮様がお聞きになって、
「惟仲の声がしていたよ。呼んで尋ねなさい」
と仰られましたので、端に出て、
「左大弁にお尋ねしたい」
と下仕えの者に呼びに行かせますと、威儀を正してやってきました。

「御前のお召しではありません。私事なのです。もしも、太政官である少納言のもとに、このような物を届けてくる下役などには、決まったご祝儀などはあるのですか」
と言うと、
「そのようなことはございません。ただ、受取って食べられるといいのです。どうしてそのようなことをお尋ねになるのですか。もしかすると、太政官のどなたかからいただかれたのですか」
と尋ねるので、
「とんでもありません」
と答えて、行成殿へのご返事を、たいそう赤い薄様の紙に、
  『自分で持って来ないような下役は、ずいぶん気の利かないものだと思われますよ』
と書いて、美しい紅梅の枝に付けて差し上げますと、すぐにご自分でいらっしゃって、

「下役が参っております。下役が参っております」
と仰られるので、端近まで出ますと、
「ああいう贈り物には、『適当に歌でも詠んでお寄こしになったか』と思いましたのに、見事に応えられたものですね。女の人で、少しでも『自信がある』と思う人は、歌人ぶるものですよ。そうでないのが、ずっと付き合いやすいですよ。私なんかに、歌を詠みかけるような人は、かえって見当違いというものでしょう」
などと仰る。

「それじゃあ、則光になってしまいますよ」
と、笑い話にして打ち切りにしたことを、
「天皇の御前にお歴々が多勢詰めていたところで、行成殿がお話しなさいますと、『うまく対応したものだ』とね、御上は仰いましたよ」
と、どなたかが話してくれましたというのは、どうも、お粗末な自慢話ですわね。



本段の主人公、藤原行成は、少納言さまより六歳ばかり年少ですが、親しい関係であったことがうかがえます。
行成は、後に正二位権大納言にまで昇っており、能書三蹟の一人として著名な人物なのですが、案外少納言さまは、年下の貴公子から慕われるチャーミングな女性だったのかもしれません。

最後の部分の「則光になってしまう」の部分は、少納言さまの別れた夫のことで、歌を詠むことを大変嫌っていたことを行成は承知していたのでしょうね。
なお、「定考」と言う行事について述べられていますが、少納言さまは「列見」や「釈奠」といった行事などを混同されているそうです。

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六位の笏

2014-10-11 11:00:19 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第百二十七段  六位の笏

「などて、官(ツカサ)得はじめたる六位の笏に、職の御曹司の辰巳の隅の築土(ツイヒヂ)の板はせしぞ。さらば、西・東のをもせよかし」
など言ふことをいひ出でて、あぢきなき事どもを、
「衣などに、すずろなる名どもを付けけむ、いとあやし。衣のなかに、細長は、さもいひつべし。なぞ、汗衫は。尻長といへかし」


「男の童の着たるやうに・・・」
「なぞ、唐衣は。短衣といへかし」
「されど、それは、唐土の人の着るものなれば・・・」
「表衣・表袴は、さもいふべし」

「下襲よし」
「大口また。長さよりは口広ければ、さもありなむ」
「袴、いとあぢきなし」
「指貫はなぞ。足の衣とこそいふべけれ。もしは、さやうのものをば、袋といへかし」
など、万づの言をいひののしるを、

「いで、あなかしがまし。いまはいはじ。寝たまひね」
といふいらへに、夜居の僧の、
「いとわろからむ。夜一夜こそ、なほのたまはめ」
と、「憎し」と思ひたりし声さがにていひたりしこそ、をかしかりしにそへて、おどろかれにしか。


「どうして、新しく官職についた六位の笏に、職の御曹司(中宮職のお部屋)の辰巳(東南)の土塀の板を使ったのでしょうか。それなら、西や東の物も使えばよろしいのに」
などと女房たちが言い始めて、わけのわからないことなどを次々と、
「着物などにも、いい加減な名前を付けたらしいのは、全くけしからんことよ。着物の中で、細長(ホソナガ・女装束の一つ)は、いかにもそう言えるでしょう。それなのに何ですか、汗衫(カザミ・童女の上着)なんてのは。尻長と言えばいいのですよ」


「男の子が着ているみたいよ」
「何でしょうね、唐衣だなんて。短衣と言えばいいのですよ」
「だって、それは、唐土(モロコシ)の人が着る物だからでしょう」
「表衣(ウエノコロモ)・表袴は、そう言っていいみたいね」


「下襲(シタガサネ)は良いわね」
「大口(オオグチ・大口の袴。裾の口が大きく広い)もね。長さより口の方が広いのですから、その名前で良いでしょう」
「袴よ、全くわけがわからないわ」
「指貫もですよ。足の衣と絶対言うべきだわ。それとも、ああいう風の物はね、袋と言うべきですよ」
などと、いろいろのことを何だかんだと言い放題に騒ぐので、


「まあ、なんて騒がしいのでしょう。もうお話はやめましょう。さあおやすみなさいな」
と私が申しますと、隣りの部屋で聞いていたらしい夜居の僧(ヨイノソウ・加持祈祷のため夜通し貴人の身辺に詰めている僧)は、
「それは大変まずいでしょう。一晩中でも、もっとおしゃべりなさいませ」
と、「私の言葉を憎々しい」と思っているらしい声色で言ったのには、可笑しくもありましたが、驚きましたよ。



女房たちの宿直の夜の様子なのでしょうね。
数人で詰めていて、おそらく少納言さまが一番年かさのような感じがします。若い女房たちは、次から次へと無駄話をしているのですが、その記録が私たちにはほのぼのと伝わってきます。
「夜居の僧」も、一晩中詰めるのは楽なことではないらしく、眠気覚ましに女房たちのおしゃべりを隣の部屋で盗み聞きしていたのでしょうね。なお、「夜居の僧」は「恥づかしきもの」として第百十九段にも登場しています。

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故殿の御為に

2014-10-10 11:00:18 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第百二十八段  故殿の御為に

故殿の御為に、月毎の十日、経・仏など供養させたまひしを、九月十日、職の御曹司にてせさせたまふ。上達部・殿上人いと多かり。
清範、講師にて、説く言はたいと悲しければ、殊にもののあはれ深かるまじき若き人々、みな泣くめり。

果てて、酒飲み、詩誦しなどするに、頭中将斉信の君の、
「月秋と期して身いづくか」
といふ言をうち出だしたまへり。詩はいみじうめでたし。いかで、さは思ひ出でたまひけむ。
     (以下割愛)


故殿(中宮の父道隆、四月十日に死去)の御為に、中宮様は毎月十日に、経や仏の供養をされていましたが、九月十日のご供養は職の御曹司にて行われました。上達部、殿上人が大変多勢来られました。
清範(セイハン・説教の名人で、この時三十四歳)が講師で、お説教がとても悲しいものなので、特に信心深くもなさそうな若い女房たちも、皆泣いていたようであります。


供養が終わって、酒宴となり詩を誦したりなどする折に、頭中将斉信(トウノチュウジョウタダノブ)の君が、
 『月秋と期して身いづくか・・・』
  (月は秋となっても輝いているのに、月を愛でた人はどこへ行ってしまったのだろう)
と、声高く吟じ始められました。その詩がまた実にすばらしいのです。どうして、これほどこの場にふさわしい詩を思い出されたのでしょう。


私は中宮様のもとに参ろうと、上臈女房たちの間をかき分けるようにしていますと、中宮様が奥の方からお出でになられまして、
「すばらしいこと。まことに今日の法事のために吟じようと考えていたに違いない」
と仰いますので、
「そのことを申し上げようと思いまして、拝見するのもそこそこに参りましたのです。何とも、すばらしくてたまらない気がいたしましたもの」
と申し上げますと、
「そなたは、なおのことそう感じたのでしょう」
と仰られる。


斉信殿は、わざわざ私を呼び出したり、偶然に会えば会ったで、
「どうして、私と真剣に親しくして下さらないのか。それでも『私を憎らしいとは思っていない』と分かっているのだが、どうも納得いかない気分ですよ。これほど長年の馴染どうしが、他人行儀なままで終わるということなどない。殿上の間などに常に詰めていることがなくなれば、私は何を思い出とすればよいのか」
と言われるので、
「言うまでもないことです。もっと親しくなることは難しいことではありませんが、そうなれば、あなたをお褒めできなくなるのが残念なのです。主上の御前などでも、私がその役目のようにしてお褒め申し上げておりますのに・・・。どうしてこれ以上親しくなれましょうか。ただ、好意だけお持ちくださいませ。他人の思惑も気になりますし、私の良心もとがめて、お褒めの言葉を言いにくくなってしまいます」
と申しますと、


どうして。特別の仲になった人を、世間の評判以上に褒める女性もいますよ」
と仰られるので、
「それが気にさわらないのならいいのですがねぇ。私は、男性にしろ女性にしろ、身近な人を大事にしたり、ひいきにしたり、褒めたり、他人が少しでも悪く言えば、大いに腹を立てたりするのが、惨めな気がするのです」
と申しますと、
「頼りがいのないことだなあ」
と仰られるのが、とても可笑しい。



本段の主役ともいえる斉信は、この時、従四位上蔵人頭左中将兼備中権守で二十九歳。後には大納言にまで昇進する人物です。
少納言さまの方が一歳年上ですが、一時二人が激しい仲違いをしていた様子は第七十七段に紹介されています。その後は親しい関係となり、本段を見る限り、何とも微妙な関係であったようです。
また同時に、少納言さまの性格といいますか、人柄の一端がうかがえる章段でもあります。

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頭弁の職にまゐりたまひて

2014-10-09 11:00:13 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第百二十九段  頭弁の職にまゐりたまひて

頭弁の、職にまゐりたまひて、物語などしたまひしに、夜いたう更けぬ。
「明日、御物忌なるに籠るべければ、丑になりなば、あしかりなむ」
とて、まゐりたまひぬ。

早朝、蔵人所の紙屋紙ひき重ねて、
「今日は、残り多かる心ちなむする。夜を徹して、昔物語もきこえて、明かさむとせしを、鶏の声にもよほされてなむ」
と、いみじう言多く書きたまへる、いとめでたし。御返りに、
「いと夜深くはべりける鶏の声は、孟嘗君のにや」
ときこえたれば、たちかへり、

「『孟嘗君の鶏は、函谷関をひらきて、三千の客、わづかに去れり』とあれども、これは、逢坂の関なり」
とあれば、
「夜をこめて鶏のそら音ははかるとも
          世に逢坂の関はゆるさじ
心かしこき関守はべり」
ときこゆ。また、たちかへり、
「逢坂は人越えやすき関なれば
          鶏鳴かぬにもあけて待つとか」
とありし文どもを、はじめのは、僧都の君、いみじう額をさへつきて、取りたまひてき。後々のは、御前に・・・。
     (以下割愛)
 


頭弁(トウノベン・太政官の官命である弁官で蔵人頭を兼ねている人物。ここでは、藤原行成)殿が、職の御曹司に参上されて、お話などされているうちに、夜がたいそう更けてしまいました。
「明日は、天皇の御物忌なので殿上に籠る予定ですから、丑の刻(午前二時前後)になってしまうと、具合が悪いでしょう」
ということで、宮中に参内なされました。


翌朝、蔵人所の紙屋紙(カンヤガミ、カウヤガミ・官用の紙)を重ねて、
「今日は、語り足らないことが多い気持ちがします。一晩中、昔話も申し上げて、夜を明かそうとしたのですが、鶏の声に催促されましてね」
と、いろいろなことをたくさんお書きになっておられ、その筆跡がとてもすばらしいのです。ご返事に、
「たいそう夜深くなって鳴きました鶏は、孟嘗君(モウショウクン・中国戦国時代の斉の王族。鶏の鳴き声で函谷関を開かせたという故事を指している)のそれでしょうか」
と申し上げますと、折り返して、


「『孟嘗君の鶏は、函谷関を開かせて、三千人の食客をかろうじて逃れさせた』とありますが、これは、あなたと私との逢坂の関のことです」
とご返事がありましたので、
「『夜をこめて鶏のそら音ははかるとも
           世に逢坂の関はゆるさじ』
しっかりとした関守がここにはおります」
と申し上げました。すると、また、折り返して、
「逢坂は人越えやすき関なれば
          鶏鳴かぬにもあけて待つとか」
とご返事の手紙などを、最初のものは、僧都の君(中宮の弟、隆円)が三拝九拝してお取りになってしまいました。後々のものは中宮様に差し上げました・・・。 


さて、「逢坂は」の歌は、その内容に閉口してしまい(この頃逢坂の関は名前ばかりで人の往来が自由だったことから「あなたは誰でも受け入れるのではないのですか」と行成がからかったもの)、返歌も詠めないままでした。全く困ったものですよ。
「ところで、あなたからの手紙は、殿上人たち皆が見てしまいましたよ」
と行成殿が仰いますので、
「『本当に愛して下さっているのだ』とその一言で分かりましたわ。よく出来た歌などは、口から口へと言い伝えられないのは、かいのないものですわ。反対に、みっともない歌が人目につくのは辛いことですから、あなたのお手紙は、一生懸命に隠して、人には絶対見せません。あなたと私の友情の程度を比べますと、見せる見せないの違いはありますが、同程度ですわね」
と申し上げますと、
「そのように、物事を分別して言われるのが、さすがに普通の人とは違うと感心させられます。『よく考えもしないで、軽はずみに人に見せた』などと、並みの女性のように言うのではないかと心配していたのですよ」
などと仰って、お笑いになられる。


「まさか、とんでもありません。お礼を申し上げたいくらいですわ」
などと、私は申しました。
「私の手紙をお隠しになられたことは、これも、一層しみじみと嬉しいことですよ。もし人目に触れたら、どれほど情けなく辛かったことでしょう。これからも、その分別を頼りに致しましょう」
などと仰られた後で、経房の中将がお出でになられて、
「頭弁が大層褒めておられたことは、知っていますか。先日の私への手紙の中で、この間のことを書いておられます。私の想い人が他人から褒められるのは、大変嬉しいものですよ」
などと、生真面目な顔で仰られるのも、可笑しい。
「嬉しいことが二つ重なりましたわ。あの方がお褒め下さったそうなうえに、あなたの想い人に加えられていたということとです」
と申し上げますと、
「そんなことをめったにないだなんて、まるで新しい経験のようにお喜びになられるのですなあ」
などと仰られる。



少納言さま、モテモテの章段です。
能書家として著名な行成との関係は、男女関係としてはともかくとても良い関係であったようです。
そして何よりも、この章段には「夜をこめて鶏のそら音は・・・」の和歌が紹介されています。百人一首にも採用されており、寡作な歌人である少納言さまの代表作ともいえる作品といえるでしょう。
その意味からも、この章段は枕草子全体の中でも重要な地位を占めていると思います。










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秋の貴婦人 ・ 心の花園 ( 64 )

2014-10-09 08:00:22 | 心の花園
          心の花園 ( 64 )
               『 秋の貴婦人 』

季節それぞれに、その訪れを伝えてくれる木や花があります。
「キンモクセイ」も、季節を教えてくれる代表的な樹木といえましょう。
心の花園にも、あちらこちらに植えられていて、普段は気にもかけない花木なのですが、九月も中旬を過ぎる頃になると、あの甘くかぐわしい香りを漂わせてくれます。
その香りに誘われて見てみますと、黄金色の小さな花をびっしりと付けているのに気が付きます。実に控え目な花といえましょう。

「キンモクセイ」は、中国南部を原産地としているそうで、わが国には江戸時代に渡来したようです。比較的新しい花木といえます。
そのため、残念ながら大宮人や平安王朝文学などには登場してきませんが、今日では、庭木や公園などの樹木として大変人気が高く、よく見かけることがあります。
「キンモクセイ」は雌雄異株で、わが国の物はすべて雄株だそうで、まず実を付けることはないそうです。

「キンモクセイ」の花言葉としては「謙遜」「気高い人」などが紹介されています。
「謙遜」は、その控え目な花からきており、「気高い人」というのは、その姿は何の主張をすることもなく、それでいて多くの人々に気高い香りを届けてくれることからきているようです。
それともう一つ、小さな花を枝にびっしりと付けていますが、花の終わりの頃になると、雨や風に打たれると何の未練もないかのように散ってしまいます。春の桜がその散り際の見事さを称えられることが多いですが、桜が豪華絢爛に散っていくのに比べ、「キンモクセイ」は実に密やかに、静かに身を隠すのです。

秋のまん真ん中で、密やかであっても気高くかぐわしい香りと、つつましやかで、それでいて潔い花を咲かせてくれる「キンモクセイ」をぜひ、お楽しみください。

     ☆   ☆   ☆
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五月ばかり月もなう

2014-10-08 11:00:52 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第百三十段  五月ばかり月もなう

五月ばかり、月もなう、いと暗きに、
「女房やさぶらひたまふ」
と、声々していへば、
「出でて見よ。例ならずいふは、誰ぞとよ」
と仰せらるれば、
「こは誰ぞ。いとおどろおどろしう、きはやかなるは」
といふ。ものはいはで、御簾をもたげて、そよろとさし入るる、呉竹なりけり。

「おい。此の君にこそ」
といひたるをききて、
「いざいざ、これまづ、殿上にいきて語らむ」
とて、式部卿の宮の源中将・六位どもなど、ありけるは、去ぬ。
         (以下割愛)


五月の頃、月もなく、大変暗い夜、
「女房は詰めておいでですか」
と、男たちが口々に言うので、
「出てみなさい。いつになく案内を乞うのは、誰が目当てなのか」
と中宮様が仰せになるので、私は、
「これはどなたですか。ずいぶん大袈裟に、大声をお出しになるのは」
と尋ねました。先方は何も言わないで、御簾を持ち上げて、さらさらと音を立てて差し込んだのは、呉竹だったのです。


「おや。此の君でございましたか」
と私が言うのを聞いて、
「さあさあ、このことをまず、殿上の間に行って話そう」
ということで、式部卿の宮の源中将(源頼定。村上帝の皇子為平親王の二男)や六位の蔵人たちなど、そこにいた人たちは去りました。


ただ、頭弁(藤原行成。前段より一年ほど前か)は、お残りになられました。
「連中は、妙な具合で帰っていったものですなあ。『清涼殿の御前の竹を折って、歌を詠もう』ということで、竹を折ってきたのですが、『どうせ歌を詠むのなら、職の御曹司へ伺って中宮様の女房などを呼び出して詠もう』と、竹を持ってきたのですが、呉竹の異名(晋書の王徽之伝に由来する)を、すばやく言われたので帰っていったのは気の毒なことですよ。あなたは誰の教えを聞いて、普通は、人が知りそうもない文句を言うのでしょうかなあ」
などと、言われますので、
「竹の異名だなんて知りませんでしたよ。『失礼だ』などと、皆さんお思いになったのでしょうか」
と申し上げますと、
「なるほど。あなたは知らないでしょうね」
などと言われる。
(竹を「此の君」とした故事を清少納言が知らなかったはずはなく、また、行成もそれを承知の上でとぼけている受け答えである)


事務的な要件などを打ち合わせながら、私と座っていらっしゃると、
「種(ウ)えて此の君と称す」
と吟誦しながら、先程引き上げた殿上人たちが集まってきましたので、行成殿が、
「殿上の間で約束した目的も果たさないで、『どうしてお帰りになったのか』と不思議に思っていましたよ」
と仰いますと、
「あんな言葉をいただくと、どう返事をすればいいでしょうか。下手な返答は返ってまずいでしょう。殿上人の間でもこの話で大騒ぎでしたよ。天皇もお聞きになられて、大変興味をお持ちでございましたよ」
とお話される。
行成殿も一緒になって、先程と同じ言葉を繰り返し繰り返し吟誦なされ、大変興味深いので、女房たちも皆それぞれに殿上人たちと夜通し語り合ったうえに、帰る時になっても、殿上人たちはなお同じ言葉を声を合わせて吟誦して、その声は左衛門の陣に入るまで聞こえていました。


翌朝、大変早くに、少納言の命婦というお方が、天皇の御手紙を中宮様に持参されました時に、「此の君」のことなどを申し上げたらしく、自室に下がっていました私をお呼びになられて、
「そのようなことがあったのか」
と、お尋ねになられましたので、
「存じません。『此の君』の意味など知らなかったのですが、行成の朝臣が、うまく取り繕ったのでございましょう」
と申し上げますと、
「取り繕うといってもねえ」
と言って、にこにこされておられます。
お仕えする女房の誰のことであっても、
「殿上人が褒めていた」
などとお耳にされることを、そして、そのように評判にされる女房のことも、お喜びになれるのが、とてもすばらしいのです。



本段も、少納言さまのご自慢話といえばそれまでなのですが、『此の君』の出来事からも、少納言さまが相当の才媛であったことがよく分かります。
同時に、その知識を隠そうとしているあたりは、取りようによっては嫌みに見えるかもしれませんが、当時の女性にとって、漢文や漢詩の素養は正当に評価されず、むしろ非難を受ける風潮にあったのも事実のようなのです。
また、最後の部分の中宮の様子ですが、中宮定子の性格のすばらしさがよく伝わってきますし、少納言さまが敬愛してやまない人柄の一端がよく描写されていると思われます。






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清少納言のお人柄

2014-10-07 11:00:06 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
     枕草子  ちょっと一息 

清少納言のお人柄

清少納言というお方は、どのような女性であったのか。
多くの研究者の方々が、いろいろな資料をもとに清少納言のお人柄を探ろうと研究してきています。そして、ある程度は、清少納言像というものが形作られてきているように思われます。

しかし、いろいろな資料といっても、何せ千年前の女性のことですから、ごく限られたものになります。
同じ歴史上の人物でも、女性の場合は男性に比べて伝えられている資料は極端に少ないのです。それは平安期に限ったことではなく、江戸時代に至っても女性の公式資料として残っているものは極端に少ないのです。
清少納言という女性に関しても同様です。
頭の回転が極めて鋭く、漢詩や漢文の素養も高く、性格も理知的でさっぱりとしていて、やや男性的なイメージだとされているものが多いようです。

しかし、清少納言のお人柄を知る資料は極めて少ないのです。その中で、紫式部日記にある清少納言評を過大評価して、清少納言を面白味のない女性のように受け取られている面があるのは残念なことです。
多くの研究者は、同時代の女流歌人の中では、清少納言と交流している人物は紫式部より遥かに多いとし、慕われる存在であったとする人も少なくありません。
紫式部の指摘はかなり感情的になっているようなのです。もっとも、その原因になったのは清少納言の方らしいのですが・・・。(枕草子百十四段)


それはともかく、結局のところ、清少納言のお人柄を知る手掛かりは、枕草子を中心とした彼女の作品を超える資料などないと思うのです。
千年の時を超えて私たちに残してくれた作品をもとに、そこに表現されているもの、必死になって胸の奥にしまったと思われるものなどを通して、私たち一人一人が清少納言像を思い描くことこそ『枕草子』を理解する重要なヒントなのではないでしょうか。

あなたの描く少納言さまが敬愛すべき女性像になるよう、ファンの一人として願っています。
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円融院の御終ての年

2014-10-06 11:00:48 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第百三十一段  円融院の御終ての年

円融院の御終ての年、みな人、御服脱ぎなどして、あはれなることを、公けよりはじめて、院の御事など思ひ出づるに、雨のいたう降る日、藤三位の局に、蓑虫のやうなる童の大きなるが、白き木に立て文をつけて、
「これ、たてまつらせむ」
といひければ、
「いづこよりぞ。今日・明日は物忌なれば、蔀もまゐらぬぞ」
とて、下は閉(タ)てたる蔀より取り入れて、「さなむ」とは、きかせたまへれど、
「物忌なれば、見ず」
とて、かみについ挿しておきたるを、早朝、手洗ひて、
「いで、その昨日の巻数」
とて、請ひ出でて、伏し拝みて開けたれば、胡桃色といふ色紙の厚肥えたるを、「あやし」と思ひて、開けもていけば、法師のいみじげなる手にて、
   これをだにかたみと思ふに都には
              葉替へやしつる椎柴の袖
と書いたり。
     (以下割愛)


円融院(一条天皇の父、三十三歳で崩御)の喪(一年間)があけた年、どなたも、喪服をお脱ぎになり、しんみりとしたことを、朝廷をはじめとして誰もが、院の生前の御事などを思い出しておりましたが、雨がひどく降る日に、藤三位の局(一条天皇乳母、上臈女房として勢力を有していた)に、蓑虫のような格好をした大柄な男童が、白く削った木に立て文をつけて、
「これを、差し上げたいのです」
と言うので、取次の女房が、
「どちらからですか。今日・明日は物忌なので、蔀も開けないのです」
ということで、下半分を閉めてある蔀から受け取って、藤三位の局も「こうこうだ」とは、お聞きになられていましたが、
「物忌なので、見ませんよ」
というので、その手紙を高いあたりに挿して置きましたので、翌朝、藤三位の局は手を洗い清めて、
「さあ、その昨日の巻数(カンズ・依頼により僧が経文などを読んだ時に、その巻数などを書いて依頼主に送る文書)を拝見しましょう」
と、持ってきてもらい、伏し拝んで開けましたところ、胡桃色という色紙の厚ぼったいものなので、「変だな」と思って(胡桃色の色紙は裏が白いので、立て文には白い部分が出ていて巻数と勝手に思っていたので、変だと感じたらしい)、だんだんと開けていくと、僧侶特有の癖の強い筆跡で、
  「これをだにかたみとおもふに都には
               葉替へやしつる椎柴の袖」
(せめて故院の思い出にと椎柴の衣<喪服>を着ていますが、春の早い都ではもう衣を替えられたのでしょうね)
と書いてありました。


「まあ、あきれた。いまいましいことねぇ。一体誰の仕業なのかしら。仁和寺の僧正(円融院が潅頂を受けた縁がある。大僧正で七十七歳)なのでしょうか」
とも思われますが、
「まさかあのお方がこんなことは仰るまい。藤大納言が、円融院の御所の別当でいらっしゃったから、あの方がされたことのようね。このことを、天皇の御前や中宮様に、早くお聞かせいたしたい」
と思うと、大変気が急くのですが、
「やはり、たいそう厳格にいいならわしている物忌を、すませてしまおう」
ということで、その日は我慢しながら過ごして、次の日の早朝、藤大納言の御もとに、この歌の返歌を詠んで、使者に置いて来させたところ、折り返し、藤大納言がまた返歌を詠んでお寄こしになりました。


藤三位の局は、それらの二つの手紙を持って急いで参上し、
「このようなことがございました」
と、天皇もおいでになられている中宮様の御前でお話になられました。中宮様は、それらをほんの少しばかり御覧になられて、
「藤大納言の筆跡の具合とは違うようね。法師の筆跡に違いない。昔話の鬼の仕業みたいな気がしますね」
などと、たいそう真顔で仰られますので、
「それでは、これは誰の仕業なのでしょう。こんな物好きな心を持った上達部・僧綱(ソウゴウ・上達部に匹敵する上級職の僧侶)などは、誰がいるでしょうか。その人かしら。あの人かしら」
などと、不審がり知りたがって仰るので、天皇は、
「このあたりで見かけた色紙が、よく似ているではないか」
と、にやにやされながら、もう一枚、御厨子のところにあったのを手にとって、お示しになったので、
「まあ、何と情けないこと。このわけを仰ってくださいませ。ああ、頭が痛みます。ぜひとも、今すぐにお伺いいたします」
と、わあわあとせがんだり恨み言を申し上げた挙句、ご自分から笑い出してしまったものですから、天皇はようよう真相を明かされて、
「使いに行った鬼童(諸説あるも、単に大柄な童という意味と考えられる)は、台盤所の刀自という者(下級の女官)のもとで働いていたのを、小兵衛(中宮付きの女房)がうまく誘い出して、使者にしたのであろう」
などと、仰せになられますと、中宮様も御笑いになられるので、藤三位の局は中宮様をひっぱり揺すって、
「どうして、このようなはかりごとをされましたのか。それにしても、巻数だとばかり信じ切って、手を清めて、伏し拝み申し上げたことでしたわ」と、笑ったり、腹を立てたりしておられる様子も、いかにも得意そうな愛嬌さえあって、面白い状況です。

そのうえに、藤三位の局は清涼殿の台盤所にまで出向いて、大笑いした後、例の童を探し出してきて、手紙を受け取った女房に見させると、
「その童に相違ないようです」
と言う。
「誰の手紙を、誰が手渡したのか」
と詰問するのですが、何とも口をきかず、とぼけたような様子でにやにやして、逃げて行ってしまいました。
藤大納言は、後にこのいきさつを聞いて、大笑いなされたとか。



天皇と中宮が一緒になって、天皇の乳母であり、女房たちの中で勢力を持っていた藤三位の局に悪戯をしたという、面白い内容の章段です。
この時、天皇十三歳、中宮十七歳ということですから、まあ、いたずら盛りともいえますし、藤三位の局に送った和歌などは、むしろ中宮が主導したものではないでしょうか。

この当時、少納言さまはまだ出仕しておらず、おそらく中宮様からお聞きになった話を記録されたものではないでしょうか。そのためもあってか、敬語の使い方などに少々混乱があると研究者からは指摘されているようです。
いずれにしても、この物語などは少納言さまお好みの内容でしょうし、明るく聡明であったとされる中宮定子の一面が描き出されている章段ともいえます。
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つれづれなるもの

2014-10-05 11:00:01 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第百三十二段  つれづれなるもの

つれづれなるもの。
所去りたる物忌。
馬下りぬ双六。
除目に官(ツカサ)得ぬ人の家。雨うち降りたるは、まいて、いみじうつれづれなり。


つれづれなるもの。
自宅から離れた場所での物忌。
駒が進まない双六。
除目(ヂモク・大臣以外の諸官職を任命する儀式)に任官しない人の家。そのような時に、雨が降っているのは、さらにも増して、つれづれなるものです。



「つれづれ」という言葉は、この時代の作品の中でよく目にする言葉です。少し時代は下りますが、「徒然草」などはその代表といえます。
本段を現代訳しているものの多くは、冒頭部分を「所在ないもの」としているものが多いようです。しかし、私にはどうもしっくりしないのです。
「つれづれ」を手持ちの辞典で調べてみますと、「①物事が変わらず長々しく続くさま。することがなく退屈であるさま。所在ない。手持ちぶさた。②一人物思いに沈み、しんみりと寂しいさま。つくづくと思いに沈むさま」とあります。
また、「することもなく、語る相手もなく、心が満たされず所在ない感じ」とも説明されています。
つまり、「あはれ」や「をかし」などでもいえることでしょうが、「つれづれ」という言葉は、現代語で短く置き換えることが大変難しい言葉だと思われるのです。

「つれづれ」を現代訳しないままになっていますので、本文の意味を若干補足させていただきますと、
「物忌」の部分は、自宅でする物忌は、家で籠っていてもそれなりにすることがあるが、他所での物忌となると全くすることがない、といった感じです。
「双六」の部分は、この遊び方がよく分からないのですが、馬(駒)が思うように進まない感じを指しているようです。
「除目」の部分は、私たちにも十分理解出来る感覚ではないでしょうか。

さて、少納言さまも、時には耐えがたいほどのつれづれの時を持つことがあったのでしょうか。そして、その時の心境をここにある事例などではなく、伝え残してほしかったようにも思います。
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つれづれなぐさむもの

2014-10-04 11:00:23 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第百三十三段  つれづれなぐさむもの

つれづれなぐさむもの。
碁・双六。
物語。
三つ四つの稚児の、ものをかしういふ。また、いと小さき稚児の、物語りし、「誰が家(タガヘ)」などいふわざしたる。
菓子(クダモノ)。
男などの、うちさるがひ、ものよくいふが来たるを、物忌なれど入れつかし。


つれづれを慰めるもの。
碁や双六。
物語。
三つ四つの幼児が、かわいらしくおしゃべりしているの。また、もっと小さな幼児が、ひとり言を話したり、「誰が家」などという遊びをしたりしているの。
菓子(果物のこと)。
若い男性などで、冗談がうまくて、気のきいたおしゃべりが出来るのが訪ねてきたときには、物忌であっても中に入れたいものです。



前段の裏返しのような章段です。
「物語」というのは、物語文学を指すと思われますが、単に読むということだけではなく、発表したり批評したりの場を指しているようです。少納言さまも主役の一人だったのでしょうね。
菓子(クダモノ)は果物のことですが、間食全般のことでもあり、酒の肴を指すこともあります。つまり、退屈まぎれに食べるあたりは、現代に繋がっている文化でしょうね。

「誰が家」というのは、「トントントン、ごめんください。こちらはどなたのお家ですか・・・」といった遊びのようです。
このあたりは少納言さまの母親の顔がうかがえますし、物忌に若い男を招き入れるなど女性の部分を垣間見せたり、短い章段ですが面白い内容です。
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