これだけ多くの芸能マスコミが集まるのであるから、やはり今回の事件は「芸能界」のできごとなのだろう。しかしながら「今まででもっとも最高の状態と時と、逆に最低と思われる状態の時を教えてください」という質問があったのには驚いた。それを訊いて何になるのであろうか? これは「CDが一番売れて華やかなスポットライトが当たっていた時と、すべてがばれて糾弾されている今」という答えを記者が期待しているような、まさにステレオタイプの質問である。そのような回答であれば記者は「自分が絶頂で売れている時にはなんら罪の呵責や後ろめたい気持ちはなかったのか?」というツッコミで切り返すつもりでいたのかもしれない。しかし佐村河内氏はこの誘導的質問には乗らなかったのである。まさにこのような誘導的質問は芸能マスコミの真骨頂?なのである。それにしてもサングラスをはずし、髪を切り髭もそるとずいぶん佐村河内氏の印象はかわるものである。これなら道を歩いていても分からないであろう。<o:p></o:p>
いろいろな商品にはいろいろなキャッチコピーがある。そもそもキャッチコピーというものは江戸時代に平賀源内が鰻の蒲焼きの販売促進を目的として「土用丑の日」と宣伝文句をつけたのが始まりであるといわれている。そして現代にいたるまであらゆるキャッチコピーをみたが、購入して「なんだ、あの謳い文句は嘘じゃないか」と分かるものも数多い。その時は「なんだ騙された」と思うか「まあ、でも結構使えるし利便性もいいからよしとするか」と思うかは購入してからの使い勝手により納得できるかどうかにかかっている。しかしながら今回のゴーストライター事件では、キャッチコピーの内容云々ではなく、まさに「人の善意に付け込んで」という問題点が大きいのである。それにしても全聾、杖歩行、耳鳴り、また手首のサポーターなど数々の演出があった。それを本人の記者会見では一つ一つ「あれは本当か、それとも嘘か」などと追及されていた。まるで奉行所のお白洲での取り調べのようだった。<o:p></o:p>
そのような意味からもヒロシマ被爆2世、全聾、作曲家、震災へのレクイエムなどのキーワードを用いた販売戦略は売れるための必要条件となる。またTVカメラの前の風貌もいかにも芸術家然としており、その話しぶりも十分インパクトがあった。つまり作品の芸術性もさることながら、これだけ多くの付加価値をつけないと実際には売れるものにはならない。しかしこの付加価値は芸能界で売り出すための特有の謳い文句とは理解されず、むしろ偶発的か意図的はわからぬが、嘘として判断され人の善意を欺いたと判断されたわけである。本来の作曲者である新垣氏をTVで見た時は、勿論それが謝罪会見であったということもあろうが、芸能界で売るために必要な「華」という部分では彼はインパクトに欠けるものがあった。おそらく最初から彼の作曲ということで前面に押し出してもここまで売れたかどうかは何とも言えない。<o:p></o:p>
すでにCDを購入してしまった人は逆に「これは将来プレミアもの」になると希望を持っていたほうがよかろう。楽しみ方は幾通りもあるはずである。文化や芸術に偽りはあってはならないが、今回は芸術の延長線上にある「芸能」なのである。「いい夢みさせてもらった」となかなか納得はできないであろうが、そう思うしか手はないようである。「楽曲自体はとてもいいものなのでその作品の芸術性は損なわれるものではない」と色々な人がコメントを出している。まさにその通りである。自分は彼の作品を聴いていないので作品の芸術性云々はコメントできない。しかし「CDにして売る」、「コンサートをひらき収益をあげる」という社会経済活動の歯車に乗ったなら、その作品が大衆に受け入れられるかどうかは、作品の芸術性が高いだけでは無理なのである。レベルの高い作品、いい商品が必ずしもヒットに繋がらない。売れるかどうかはそれに伴う種々のイメージ戦略や販売ルートや宣伝方法の確立が必要になる。<o:p></o:p>
ヒロシマ被爆2世、全聾、作曲家など、これらキーワードは芸能人の「肩書」と解釈すればインパクトのあるものである。「人の善意に付け込んで」という流れがなければ、これはこれで芸能界において通常あたりまえのように行われているものでもある。またあのミステリアスな風貌と言動はいかにも大衆の気を引く演出である。暗い部屋で壁に頭をぶつけて苦悩を示しながら作曲するさまは、まるで江戸川乱歩が(実際はそうではなかったのだが)、暗い蔵の中で蝋燭をたてて執筆活動をしていたという売り文句を彷彿とさせる。「カリスマ○○」「神の手をもつ○○」「絶品○○」「○○の鉄人」などは評価の基準はなく、嘘でもいい。つまり売るためのエピソードや肩書にはどこまでが真実で、どこからが虚構なのかの区別はなくてもいいのである。もともと芸能界とは「夢を売っている商売」である。その夢が悪意のある虚構のものでも、はたまた真実であっても、もともと胡散臭いものなのだと話半分で納得し、その上で楽しい夢を見させてもらっていると鷹揚に構えたほうが楽しいのである。<o:p></o:p>
かねてより院内掲示、またHPでもお伝えしておりますように明日、4月5日(土)は学会出張のため休診とさせていただきます。
芸能界で売るためには、華がなければ売れない。何か人の琴線にふれるエピソードがないと売れないのである。昔から芸能界は夢を売るのが商売といわれているが、その夢はというのは概ね虚構の世界の話なのである。タレントの生い立ちや昔の生活状況は、本当の話もあろうが、人の気を引くように、幾ばくか(あるいは大半が)脚色されていることも多いのである。またそれを報道し糧を得ているマスメディアも、一旦絶賛するときは「現代のベートーベン」と祭り上げ、こき下ろすときは「希代のペテン師」と節操なく手のひらを反すのである。この「ベートーベン」と煽り立てることで大衆もその気になってしまったわけであるので、マスメディアの功罪も検証されるべきである。この佐村河内氏の事件では、確かに人の善意につけこんだ見事なまでの演出でありとにかく気持ちの良いものではない。しかし芸能人が虚構のキャッチコピーをつけて自身を売り出す方法と似てはしまいか? <o:p></o:p>
被爆2世が全聾の音楽家と偽り、他人が作曲した楽曲を自らのものと発表し世間を騒がせた事件があった。世間を欺いたとか著作権違反だとかいわれてもいるが、のみならずコンサート中止によるイベント会社、またCD回収に伴うレコード会社の損失も大きいといわれている。何よりも被爆や震災と絡めた商法に乗っかり販売部数を増やしたことも大衆の善意を欺くものとTVでは論評されている。このような人の善意に乗じて利益を得る方法は極めて「あざとい」ものと思われる。いや「あくどい」と表現してもいいだろう。これはクラッシック音楽であり「文化、芸術」に属するものと思われる。芸術という文化活動を用いて人の気持ちを欺くことはあまり気持ちのいいことではない。しかしながら作品を販売し広く大衆から利益を得るという社会経済の歯車に乗ってしまえば、事実上「芸術・文化」というものは「芸能」に姿をかえることとなり、したがって今回の騒動は芸能界でのできごとと極論できる。<o:p></o:p>
おそらく過去、ちょっとした風邪にも抗菌薬を投与していた時代が長くあったのであろう。患者さんも風邪で少し具合が悪いと「抗生物質(抗菌薬)も出してください」と自ら希望する方が多かった。最近ではずいぶん少なくなってきたが、それでも時々「注射してくれ」とか「○○(抗菌薬の銘柄)を1週間分出してくれ」とか、細かく注文される方もいる。正直とても面倒くさいのである。「細菌感染症でなければ効かないこと」「自己判断で漫然と1週間以上続けても意味がないこと」「耐性菌をつくるかもしれないこと」等などを説明しても、このような患者さんは絶対に納得しないのである。首を傾げ納得しない表情でお帰りになるか(この場合その足できっと他院にいくのだろう)、あるいは猛者の患者さんでは「そうは言うが、私にはきちんと効くんです。処方してください」と一歩も後に引かない人もいる。ここまできたら自分も折れることにするが、「この患者さんのマインドコントロールが解けるのはいつになるのかなあ?」と心配になるのである。根本的に医院は薬局と違う職務があるのでそれを遂行しなくてはと思うのであるが・・・。<o:p></o:p>