津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家肥後入国--4 清正廟所遥拝

2007-12-01 16:48:08 | 歴史
 先だって肥後入りしていた家中の面々が警固する中、警固以外の者達は供奉して忠利は城に向かう。追手の御門外で御城番の御衆が御出迎し、忠利はここで下乗請取渡の挨拶を交わすと、足軽頭(井門亀右衛門)に下知して鉄炮衆の火縄を消させたという。御門から御玄関に至り御城番の石川主殿頭から、「城内の武具、財宝等の書記」を受取り天守の上段に上った。これが巳ノ刻だとされる。そして加藤清正の廟所である本妙寺の方角を尋ねて遥拝したとされるが、このとき「多年御入魂なりしか不思議ニ当城を賜り候」と挨拶したとされる。このことについては、御門前に筵を敷き挨拶したという様な話しが伝えられるが、前者が正しく後に尾ひれがついての話しであろう。司馬遼太郎はその著書「春灯雑記」の中で、細川護貞氏から熊本城を案内された折同様の話しをきいた事を紹介している。当然前者である。廟所には南関から使者を遣わすとともに、入城後直ちに使者を送ったという。いずれにしても前国主加藤家に対しては万全の礼儀を尽くし、その事が肥後の民人の心を和ませた事は確かであろう。これは単なるデモンストレーションではなく、細川家は邸内に加藤家御祀堂を建立し、代々がこれを大切に扱っている事にも心底が伺われる。
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細川家肥後入国--3 拝領の御沙汰から肥後入りまで

2007-12-01 08:02:22 | 歴史
 十月四日肥後拝領の御沙汰を得た忠利は次々に国許へ書を発する傍ら、御礼の為に多忙な日々を過ごしている。そして十月十五日に江戸御発駕、廿七日大坂着、十一月十一日小倉に帰っている。その間にも忠利の早飛脚による指示がもたらされ、長岡佐渡守・有吉頼母佐・長岡監物らの適切な処置により、肥後入りの準備が万端調えられるとともに、「飛ぶ鳥跡を濁さず」の始末が成されていく。御供の者が決まり、警護の鉄炮者・御弓者なども決定、道筋の宿奉行や万奉行などが定められる。忠利の帰着とともにその事が肥後在番に届けられる。十七日には沢村大学介が先遣として肥後へ向かう。廿日には上使板倉内膳、仙石大和守が小倉入り、廿三日には肥後へ向けて出立して行く。廿七日、小笠原備前・志水伯耆・清田石見・三渕内匠・氏家志摩・道家帯刀・藪図書・藪市正・加々山主馬・国達道倫らが御郡奉行に任ぜられる。十二月五日長岡監物小倉差立、七日に熊本入りし在番の石川主殿頭に被謁して「御要害之錠鍵」の引渡しを受け、大御番所をはじめ諸所の番所を警固した。六日いよいよ忠利一行は小倉を出立、行程四十里を四日かけ、途中の黒田・有馬・立花の領内を饗応・御音信をうけながら通過、九日朝「夜ふかく山鹿御立」熊本に入った。長岡監物宛の有吉頼母等の書状によると「当地御城唯今九日之辰ノ上刻ニ被成御渡、無事ニ請取申候」とある。十日忠利が息光利に宛てた書状の中に「事外ひろき国にて候、城も江戸之外これほとひろき見不申候・・以下略」と、その感慨を申し送っている。家臣たちも順次熊本入りするが、「御入国宿割帳」に詳しい。日付は十一月廿八日とされているが、家族を含めると万に近い人々の移動であり、一挙に肥後入りしたものでない事は確かだろうし、この日付けは記録上のものであろう。慌しい一年の終わりを迎えようとしている。
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