大叔父が著した書の中に、我が曽祖父を「学校党の人」と記している。曽祖父は上田久兵衛の娘を妻としたが、久兵衛が罪を得て斬首の刑に処せられてのち、熊本を離れることはなかった。久兵衛は旧主細川韶邦の晩年、その容態が危ぶまれた時、大なる借金をして上京して見舞っている。京都を舞台にして公武合体に向けて奔走したのは、そんな敬愛してやまない韶邦の時代である。「学校党」というくくりは、何時ごろからのことだろうか。米田・横井等の一統「実学党」の名は、天保弘化の頃の文書で散見され、松井佐渡が「それでは藩学は虚学なのか」と怒ったと伝えられる。昭和十八年の荒木精之氏の「林桜園」には、その松井佐渡を筆頭として、溝口孤雲、小笠原源七郎、林新九郎、松崎傳助、鎌田景弼、池邊吉十郎、櫻田惣四郎らに混じって上田久兵衛の名前がある。学校党は「珠呈の学を奉じ、居敬窮理を事として、謹厳篤厚、上を敬い、自ら重んじて、秩序整然、軽忽に事をしない」とし、「天下国家のことについては殆ど風馬牛のありさま」と散々である。護久・護美らにより180度舵が切られたが、天下の大勢に遅れを取った。その実学党の天下も三年ほどで瓦解した。
宝暦の改革以降、藩校時習館が輩出した人材が藩政の隅々にあった。その間の約百年の治世をどう考えるのか、学校党とは何なのか、風当たりの強い学校党の胤である私は、その風の気味の悪さに癖々しながら思いを深くしている。