津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

忠興の眼病

2007-12-21 11:47:15 | 歴史
 「大日本近世史料・細川家史料」を見ていると、医師の名前が度々出てくる。今大路氏や半井氏などの幕府にも仕える名医や、王珍・三官・少峰などの明国人、三盛・分清・玄也などとともに、眼科医の岡平兵衛、真嶋圓房(大坂)等の名前が見える。重病人が出ると早飛脚を立てたり、六十人ほどの加子による早船を仕立てたりして、京の名医を連れに行くということが度々行われている。眼が悪い忠興は、そういう意味でも京・大坂に在りたい気持ちは深かったであろう。その眼病は元和に入ってからの事らしいが、「此の節御家中ニ而も銘々祈願等仕候由・・・云々」とあり、深刻な状態が窺がわれる。元和二年二月廿九日の書状は「此比御眼病以野外ニ被差発候」として、本文には「我々儀此比目を散々煩候、今之分候は本復可仕か本復仕間敷かと申半ニ候」と失明の心配をしている。それは二月七・八日頃からの事で「両眼共ニひしと見へ不申候事」だとしている。

 その原因として記されている一文も興味深い。忠興が小倉で城普請をする時、小さな祠があったので「汚穢を如何」と思し召して「潔清の地」に移した。ところが此処で眼疾が出たので、周りのものが「これは神の祟りかもしれないので、祠を元の位置に戻しましょう」と言うと忠興は、「この神は邪神だ」と怒り出し、その祠を捨てさせたという。そうしたら完治したというのである。まずは目出度い話しだが、失礼ながら笑ってしまう。

 佐方宗佐の元和二年の「眼病平癒」の絵馬奉納の写しなどから見ても、家臣一同の心配も一方ならぬものであった事が窺がえる。
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