慶長五年七月石田三成は東軍諸将の夫人を人質に取り、西軍有利に導こうと画策する。忠興夫人はその申し出を蹴って自害するとともに、守将たちも屋敷ニ火を放ち殉死して果てる。このことによって、「三成は他の大名夫人を人質に取る事を断念した」とするむきがあるが、これは大きな間違いである。
池田輝政・藤堂高虎・有馬豊氏・加藤嘉明らの夫人が人質とされた。この時期加藤清正は熊本に在る。夫人清浄院(家康養女=水野忠重女)や、黒田長政室(徳川家康養女=保科正直女)などにも同様の要求がむけられる。黒田氏の対応は素早く、細川夫人の死の報と同時に脱出の行動を取っている。長政夫人・如水夫人ともに十二日ほど後には所領地に帰っている。清正夫人の逃避行は大変を極めている。黒田氏の多大な援助を受け、護衛の人数をつけられて熊本に到着したのは、九月一日である。(『加藤清正「妻子」の研究』から)
同書にも紹介されている本妙寺所蔵の清正文書は、清正の喜びにあふれた素直な気持ちが伺われる。新熊本市史・資料編・第三巻にはもうひとつ九月七日付の本多正信らに当てた文書が紹介されているが
女共罷下ニ付、其注進として大坂への便宜ニ遣候、大坂より才覚候へと申遣候
跡書
態致言上候、何方迄被成御馬候哉、承度存申上候
一我々女房共、今月朔日熊本ニ至而召寄候、若御機遺ニ召候ハんかと存申上事
(以下略)
加藤・黒田・池田・有馬の夫人はすべて家康の養女である。藤堂・加藤(嘉)氏は有力大名である。ガラシャ夫人の死をもってしても、三成の暴挙は止められて居らず、三成が猛反発を受けたのは当然のことで、「人質作戦失敗」(ウィキペディア)もまた当然の事であった。
池田輝政・藤堂高虎・有馬豊氏・加藤嘉明らの夫人が人質とされた。この時期加藤清正は熊本に在る。夫人清浄院(家康養女=水野忠重女)や、黒田長政室(徳川家康養女=保科正直女)などにも同様の要求がむけられる。黒田氏の対応は素早く、細川夫人の死の報と同時に脱出の行動を取っている。長政夫人・如水夫人ともに十二日ほど後には所領地に帰っている。清正夫人の逃避行は大変を極めている。黒田氏の多大な援助を受け、護衛の人数をつけられて熊本に到着したのは、九月一日である。(『加藤清正「妻子」の研究』から)
同書にも紹介されている本妙寺所蔵の清正文書は、清正の喜びにあふれた素直な気持ちが伺われる。新熊本市史・資料編・第三巻にはもうひとつ九月七日付の本多正信らに当てた文書が紹介されているが
女共罷下ニ付、其注進として大坂への便宜ニ遣候、大坂より才覚候へと申遣候
跡書
態致言上候、何方迄被成御馬候哉、承度存申上候
一我々女房共、今月朔日熊本ニ至而召寄候、若御機遺ニ召候ハんかと存申上事
(以下略)
加藤・黒田・池田・有馬の夫人はすべて家康の養女である。藤堂・加藤(嘉)氏は有力大名である。ガラシャ夫人の死をもってしても、三成の暴挙は止められて居らず、三成が猛反発を受けたのは当然のことで、「人質作戦失敗」(ウィキペディア)もまた当然の事であった。