しょっちゅうの事ではないが、最近時々身体が傾ぐ。階段を上っている時に左の方へ寄りかかるような状態に成る事に気づいた。あんまり気持ちのいいものではないが、のんきな爺様はあっけらかんとしている。取り合ってもらえそうにないから、妻にも話していない。我が家は短命の血筋だというが、どうも胸の病であったろうと思われる父親は別として、そこそこ生きている。酒飲みの血筋だから、飲むのはそこそこにしろと周囲に言われてきた。それを気にしているわけではないが、最近は肝休日を存分に取っているから至って快調である。そこんところを強調して、忘年会を二つ三つ消化しなければならない。身体の事は、忘年会がすべて完了してから話そうと思っている。
細川重賢の登場は非常に象徴的である。それは兄・宗孝の不幸な死によってではあるが、時代の変革期になるべくしてなった人なのかもしれない。熊本における宝暦の改革の見事さは、まさに人材登用の妙に尽きる。側用人竹原玄路の進言による、堀平太左衛門の登用がその最たるものであるが、竹原玄路の慧眼には恐れ入る。その平太左衛門による井口庄左衛門、蒲池喜左衛門、清田新助、村山九郎次郎、志水才助、日隈杢太夫、町市郎右衛門、吉海市之允、大洞弥一兵衛、三浦平左衛門、石寺甚蔵、藪市太郎、大里角次、小阪九郎助ら中堅家士の起用も又特筆すべきであろう。藩校時習館設立に当たっての秋山玉山、医学寮再春館設立に当たっての村井見朴も同様である。宝暦の検地とも言うべき「地引合せ」を、十三年の歳月を費やして完成させたのは田添源次郎であり、熊本の養蚕を育てたのは島已兮(しま・いけい)である。
宇野東風はその著「細川霊感公」(明治42年)で、「政務の要は只人材を登用するにあり」と記している。・・・まさにしかり・・・
藩校時習館の設立は、まさにその人材育成の大業であった。時習館があって、肥後の明治維新があったことを忘れては成らない。
宇野東風はその著「細川霊感公」(明治42年)で、「政務の要は只人材を登用するにあり」と記している。・・・まさにしかり・・・
藩校時習館の設立は、まさにその人材育成の大業であった。時習館があって、肥後の明治維新があったことを忘れては成らない。