田邊城籠城で疲れが出たのか、幽齋は慶長六年二月下旬「以之外御煩被成候」となり、忠興は「早速御上被成」見舞っている。四月には御本復祝が執り行われた。
慶長五年の暮忠興は豊前に入国するが、幽齋が初めて豊前を訪ねたのは一年ほどを経た、慶長六年十二月中旬である。豊前中津に「所々之御城代各中津にいたり、御目見候」とある。そんな中島津龍伯(義久)や加藤清正をはじめ、近隣の諸侯が挨拶に訪れている。
忠興は豊前(後)に住まうように薦めている。
「豊後国国東郡富来(トミク)城ハ要害堅固の地形なる故、御居城可然かと忠興君より被仰上候へ共、都遠地なる故、直に洛外吉田に御隠棲可被成旨被仰候」(綿考輯録・藤孝p279)
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この京都吉田とは、「吉田の御館ハ随神庵と名付られ候」と綿考輯録は記す(p278)が、場所の特定ができないでいる。綿考輯録は、「吉田の御館ハ神竜院の前ニ在、号風車軒と云々」とも記す。幽齋女・伊也は吉田兼治に嫁いで吉田神社・神龍院で没している。いずれにしろ、女・伊也の近くに住まいが在った事は間違いなさそうだ。
ちなみに吉田神社には、吉田兼倶をまつる神龍社というものが在る。