津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

愛書家の皆様へ 読むべし

2011-04-02 14:58:11 | 徒然

 光文社からのメールマガジンを読んでいたら、面白い話や、身につまされる話が載っている。愛書家の皆様には是非ともお読みいただいて、地震でも起きた場合に圧死しないように、予防策を講じられることをお勧めする。

   ▽『光文社新書メールマガジン』に関する各種手続き、FAQはこちら。
  (登録、情報の変更、ID・パスワード確認、退会など)
        津々堂は光文社の回し者では有りません。ご理解下さい。
       
http://www.kobunsha.com/special/sinsyo/member/


連載「読書の苦しみ」

   「どうしてこうなってしまったのか 心に傷みを感じながら」
   ――吉田拓郎の歌のフレーズが今の自分の気持ちにぴったりくる。
   心が傷むのは、わが蔵書の現状に、である。本が増え過ぎてしまったのだ。

   推定蔵書数2万冊、今も年間3000冊増え続ける著者が綴る、
   苦しくもおかしい格闘の日々。

>> 【第1話】 底が抜けた
~ 光文社新書メールマガジン 2010.10.26 配信 ~
>> 【第2話】 究極の蔵書整理術
~ 光文社新書メールマガジン 2010.11.29 配信 ~
>> 【第3話】 蔵書は処分するためにある
~ 光文社新書メールマガジン 2010.12.24 配信 ~
>> 【第4話】 どうすれば理想の読書空間が作れるのか
~ 光文社新書メールマガジン 2011.01.25 配信 ~
>> 【第5話】 本棚をめぐる冒険
~ 光文社新書メールマガジン 2011.02.25 配信 ~
>> 【第6話】 地震がやってきた(特別編)
~ 光文社新書メールマガジン 2011.03.25 配信 ~

ここに出てくる草森紳一著 随筆「本が崩れる」 (文春新書)をぜひ読みたいものだ。
【著者】
岡崎武志(おかざきたけし)/1957年大阪府枚方市生まれ。ライター、書評家。
書評を中心に執筆活動を続ける。著書に『読書の腕前』(光文社新書)、『気まぐれ古書店紀行』(工作舎)、『古本生活読本』『古本極楽ガイド』『古本でお散歩』(以上、ちくま文庫)、『文庫本雑学ノート』(ダイヤモンド社)、角田光代との共著『古本道場』(ポプラ社)などがある。
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2011-04-02 11:19:50 | 俳句

                       震災の春や桜の悲しかり

 所用で外出してみると、あちこちの桜が七~八分咲きに咲いています。
東京の石原都知事が、被災地の皆さんの心中をおもんばかって、花見の自粛を訴えていましたが、その是非はともかくお気持ちは理解できます。日本人は聡明ですから、こんな時期どんちゃん騒ぎは絶対しないと思いますね~。
それにしても、美しい桜の色の今年のなんと悲しく感じることか。散るころにはまた一段とそんな想いが深まることでしょう。
被災者の皆様に一分・一秒もはやく、安らいだ気持ちの訪れが来るように願わずにいられません。

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景勝追討の折の指物など

2011-04-02 09:12:35 | memo

 先に大坂の陣における細川家の馬験について書いたが、慶長五年徳川家康の上杉景勝追討に細川与一郎(忠隆)出陣の折、忠興が与一郎に与えた「定条々」の別紙「覚」に、馬験その他に関する記述があった。(綿考輯録-忠興一・p190)

                     覚
一、折かけきぬ三、はゞ長サ弐間五寸、但紺にすちかへて二筋白く可付、先ニ面々の紋可置事
一、さし物、色紺、絹のたけ三本なから四尺たるへし、上之ぬいめより壱寸おきて、面々の紋を紙をいためて
   金箔を置、紋付へし、但絹一はいに有ことく大きに可付事
一、鉄炮放し、具足をきせす、もめん道服をきさすへし、但せなかに夫々の紋白付へし、色ハこいあさきたる
   へし、広そてたけハ、ひざふしたけにすへき事
一、笠いためがはニてすべし、うつくしく黒クぬりて、金ニてそれ/\の紋前後にはばかる程に可付事
一、鑓しるしゆるし候衆より外ハ庭鳥の尾たるへし、白尾をませ候事禁制、但ゆるし候衆も別之鑓しるし不
   可付、庭鳥の尾付度衆ハ、主次第たるへき事、付しるしは鑓のつばさきより弐尺下ニ可付事
       慶長五年六月十六日                忠興君 御判
                      与一郎殿

 大変きらびやかな様が伺えるし、細やかな指示は茶人三齋を彷彿とさせる。

付けたし
六月廿三日与一郎忠隆宮津を出陳
        長岡玄蕃、同与五郎(興秋)、松井新太郎興長、米田助右衛門是政、同与七郎是季、
        有吉与太郎康政

        番頭:篠山与四郎宗信、荒川少兵衛輝宗
        鉄炮頭:西郡大炊清忠、白杉少助、水嶋源助
        田邊御人数:長岡与十郎
                  同 平左衛門好重
六月廿七日忠興君宮津御首途
        御万様以之外御煩故御見合被成今日迄御延引也
 (お万は慶長三年生まれ。、このときは二・三歳である。生母は明智次左衛門女・小やゝ 戦いの最中は田邊城に逃れたのだろうか?)

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