熊本市横手在住の田中美佐子氏の作によるチベット仏画等の展覧が、4月18日より5月15日の予定で行われます。 〈出展者紹介〉 田中美佐子 女史 (熊本市横手町在住) ・小堀墨秀氏に師事 (日本画) ・高井玄氏に師事 (仏画) ・現代創像美術展2回入選 |
「島津家メモ」というサイトがある。島津家がメインであることは勿論だが、細川家のことがかなり取り上げられている。随分一級資料を読み込んでおられる。
http://zatukaiko.blog.shinobi.jp/Entry/163/
洒脱な解説も面白い。ご一見を・・・・・
「佐久間象山の系譜、そのルーツを語る」
吉原 実
石川郷土史学会会誌第36号
ここ信濃が誇る幕末の偉人佐久間象山の系譜を遡ると、江戸の初期に飯山を治めた佐久間備前守安政に行き着く。安政は戦国の雄、織田信長の家臣であった。その一族は織田家宿老・佐久間信盛や金沢城主・佐久間盛政など、戦国史上に登場する人物を輩出した尾張・佐久間氏である。祖先は源頼朝のもと、鎌倉幕府創設に大きく貢献した相模の豪族三浦氏と言われる。
『寛政重修諸家譜』など多くの系図によれば鎌倉初期、頼朝より三浦氏の一族が安房国佐久間(千葉県安房郡鋸南町)の地を賜り、その地名を取って三浦姓を佐久間に変えたとされる。そして後に、その一族の後裔が尾張国・御器所(ごきそ・名古屋市昭和区)に地頭として赴任、尾張・佐久間氏の始祖となったと言われている。
三浦氏の研究は地元神奈川県を中心にして大変活発で多くの史料や文献があり、これらを利用しながら佐久間一族のルーツについて詳しく検証して行く。
先ずは日本史上における平安期、関東(坂東)地方に興る武士団に付いて述べなければならない。武士団とは血縁関係を中心にして、自らが新しい土地を開墾私領とし、国衙在庁官人らと結びつき多くの特権を得て在庁領主的な姿となり、それらの特権を守る為に武技を練り、血縁者や多くの家子・郎党を抱え、党と呼ぶ戦闘集団を形成したものである。そして党の中心には家督の相続人である嫡子が置かれた。
この様な武士団のひとつである三浦氏の姓(かばね)は平安遷都した第五十代桓武天皇の子孫、桓武平氏である。かばねとは元皇子、皇女等の皇族が臣籍降下(天皇の家臣になる)する時に、天皇より源朝臣(あそん)や平朝臣などの姓(せい)を賜るのである。継嗣令といわれ親王から五世までは王と称することが定められているが、皇族の数が多くなるにつれ費用がかさむため、経済上の理由から賜姓し独立させるのである。
桓武天皇の場合、その子葛原親王から高見王、高望王と続きこの高望王が臣籍降下し、平高望と名乗り東国(坂東)の任国へ赴いたのである。その子には後の平清盛や北条時政たちの祖となる国香、良兼、良正や天慶(てんぎょう)の乱を起こす平将門の父にあたる良将、そして五男の良文が三浦氏の祖と言われている。良文は下総の相馬郡の所領を根拠地とし、武蔵国大里郡村岡(埼玉県熊谷市付近)を開拓し、村岡五郎良文と名乗っていた。その勢力は次第に相模の方にも拡大していき、一族はやがて坂東八平氏と呼ばれる千葉、大庭、長尾、秩父、上総、土肥、梶原、三浦の諸氏に分かれて行ったのである。そして清和天皇を祖とする武蔵介源経基やその子孫たちと密接に結びつき、源頼義の代には東北陸奥の安倍氏との戦い(前九年ノ役)に出陣、その中には平公義、為通の名もあった。為通には恩賞として相模国三浦郡(神奈川県三浦半島内)が与えられ、三浦平太郎為通と名乗るようになったのである。
三浦氏の菩提寺である満昌寺(神奈川県横須賀市)には次のように伝わっている。
雲竜山満昌寺縁起
抑三浦一党之系本者、桓武天皇人王五十代葛原親王一品式部卿之末葉三浦平太郎為通也、夫為通者、後冷泉院後宇康平年中、将軍伊予守源頼義、奉レ詔而征= 安部貞任 之時、為通属 頼義公 有 軍忠 、故為 恩賞 、領 相州三浦 始号 三浦 。
それから二十年後、頼義の子八幡太郎源義家が陸奥守として赴任した時、出羽の清原氏の内紛に端を発した戦いが起こった(後三年ノ役)である。清原清衛を助けた源義家軍の中には三浦太郎為通、同平太郎為継親子の名が見られる。
やがて中央では長い間、皇室の外戚として政治を思うままに動かしてきた藤原氏に代わり上皇による院政が始まった。源義家の孫で院に仕える為義の子義朝の代には、三浦氏も為継の子義継とその子義明が一族の中心となっていたのである。その活躍の様子は、天養二年(1145)源義朝の郎党や国衙在庁官人の一味として三浦庄司平吉次男同吉明が伊勢神宮領大庭御厨(おおばみくりや)に浸入したと『天養記』に載っている。
義明は国司の次官で、国衙の実務を掌握する有力在庁官人である三浦介(通称で大介とも)呼ばれている。中央でも大きく力を延ばそうとした源義朝は、保元ノ乱では父と兄弟を自らの手で殺すことになり、次に起こった平治ノ乱では戦に敗れ東国へ逃れる途中に命を落としてしまう。その子頼朝は捕らえられ伊豆に流され、義朝方に加わっていた三浦義明の子義澄は、からくも東国へ逃れることができ、平家治世の時にはその家人として一族も生き残っていくのである。その間には大番役などで京の間を行き来しながら、中央の情勢を伊豆にいる頼朝に伝えている事が多くの文献の中に見られる。やがて治承四年(1180)源頼朝の旗揚げに応じた義明、義澄たち三浦一族は、石橋山ノ合戦には参加できずにその居城である衣笠城に拠ったが、平家軍の追撃を受け義明は討ち死にし、義澄は頼朝と共に安房国へ海路逃れ、やがて鎌倉入りを果たすのである。その後、頼朝に従い壇ノ浦合戦など数々の平家との戦いに参加した三浦一族は義明の兄弟達や子ども達が分立し、三浦半島各地の所領を分与されて土地の名を名字とする家を興している。義明の孫で義澄の甥にあたる義盛は和田を名乗り鎌倉幕府初代の侍所別当となっている。他には津久井(義行)、芦名(為清)、大多和(義久)、多々良(義春)、長井(義季)、佐原(義連)などがある。
その勢力は三浦半島のみならず、相模国中央部(現在の平塚市や海老名市など)や安房国(房総半島の内房佐久間ルーツの地、鋸南町など)にもおよんでいた。
これは三浦一族が三浦水軍と呼ばれる規模と機能を持っていたゆえであり、それを裏付けるように源平合戦の壇ノ浦海戦で三浦義澄が中心となって源義経の将として活躍している様子が『吾妻鏡』に詳しく書かれている。これは多くの水軍(兵船)と共に三浦半島より海路をとって西下したと考えられるのである。
やがて鎌倉幕府成立後、頼朝御家人の中でも三浦氏は北条氏と並ぶ力を持つことになる。その中、頼朝の政権樹立に大きく貢献した三浦義明の孫、家村は安房国佐久間荘に住んで佐久間太郎家村と名乗り佐久間氏の始祖となった。
ますます将軍頼朝の信頼を得た三浦一族は大きく発展をとげ、二代将軍頼家の重臣として仕えた義澄、その後を継ぎ相模守護となったその子義村は、娘を北条義時の子泰時に嫁がせ二人の間には時氏が生れている。しかし、この北条氏と三浦氏の蜜月時代は長く続かず、幕府内の権力を独占しょうとした義時は建保元年(1213)、和田義盛を挑発して蜂起させた。建保ノ乱である。
三浦一族の長である義村は、従兄弟にあたる同族和田義盛に同心を約束しながら直前に裏切り北条方についた。あまりにも巨大になりすぎた三浦氏、そのため庶流が力をつけすぎ嫡流の意のままにならなくなる等の弊害が出て、その事が一族間の亀裂を生む事となったのである。結果、義盛始めその子常盛など一族与党ことごとく討ち死にし、和田方の敗北に終わったのである。
この時の一族である三浦義村の行動は、「三浦の犬は友をも食らう」と大変な批判を浴びたと『古今著聞集』に書かれている。この時、和田方で生き残った義盛の孫、朝盛は安房へ逃れ、一族の佐久間家村の養子となったと伝わる。
その八年後の承久三年(1221)、京の後鳥羽上皇より北条義時追討の宣旨が関東諸士にもたらされた。承久ノ乱と呼ばれるこの時、京方として倒幕に参加していた三浦義村の弟胤義から義村に同調するようにとの密書が送られたが、義村はそれを義時に差し出し、幕府軍に参加するのである。先の戦いでは従兄弟である義盛を、今度は弟の胤義までも犠牲にして一族を守ろうとしたのである。佐久間朝盛は京方として参陣したが、その子家盛は幕府軍として宇治川合戦で戦功をたてた様子が『吾妻鏡』や『承久兵乱記』に描かれている。その恩賞として戦後に上総国興津と尾張国御器所を与えられ、家盛はその子、重貞と勝正をそれぞれの城主としたと伝わる。重貞については『日蓮年譜』に「上総国興津邑主佐久間重貞、妙覚寺を創建する」と記されている。
さて京方として敗れた朝盛はどうなったのであろうか。一説によると越後国奥山荘へ逃れたとある。この地は和田義盛の弟、義茂が木曽義仲追討の恩賞として与えられた土地でその後、子である重茂が領した。この人物は建保ノ乱では幕府方として、義盛の子朝夷奈義秀と組み討ちして首を取られている。
従兄弟同士で殺しあうという現代の我々には想像のつかないことだが、この奥山の和田氏を朝盛が頼った事は納得がいくことである。ちなみに後、この奥山の和田氏の子孫は三浦和田と珍しい姓が二重になる名を名乗り、やがて越後の名族中条氏や黒川氏の祖となり残っていくのである。ところで佐久間姓を初めて名乗った家村が住した佐久間荘は現在どのようになっているのであろうか。
千葉県JR内房線勝山駅付近を下佐久間、それより東方を中佐久間、山を越して上佐久間、さらに奥山と呼ぶを含めて佐久間郷は広く、佐久間姓を名乗る家はこの奥山に数家あるだけと聞く。佐久間川という小さな川が流れている何処にでもあるような田舎の風景が続くそうである。
一方、尾張・御器所に移った佐久間氏を初めて史料で確認できるのは、建治元年(1275)に発給された『六条八幡宮造営注文』によってである。これは幕府政所が、京の六条若宮再建費用を全国の御家人に出させた時に作られた名簿であり、鎌倉内の御家人、在京御家人、各国人衆とに分けて書かれており、その尾張分の中に、佐久間二郎兵衛入道三貫とある。この人物が朝盛なのか次の家盛なのかはっきりしないが、佐久間氏が建治元年には尾張の地頭であったことは確かなようである。
次に今も名古屋市昭和区御器所にある佐久間一族の氏神であった御器所八幡宮(当時は八所大明神と呼ばれていた)に嘉吉元年(1441)の銘のある棟札が残っている。これによるとこの年、佐久間美作守上臈と同□上臈永相が檀那になって社殿を造立した事がわかる。現在は熱田神宮宝物館に保管されている。また、八幡宮の近くにある佐久間一族の菩提寺、龍興寺に残る文書は文安三年(1446)、佐久間孫五郎助安(美作守と同族と思われる)を民部丞にとの足利幕府に対する吹挙状であり、吹挙者は文書の花押より熱田社大宮司千秋(せんしゅう)持季と思われる。千秋氏は後の戦国時代に織田家臣として信長の元で活躍し、佐久間氏とも姻戚関係になる一族である。
京都相国寺塔頭鹿苑院蔭凉軒主の日記である『蔭凉軒日録』や愛知県知多郡東浦町緒川の乾坤院(けっこんいん)所蔵『血脈集』にも次の記述が見られる。
寛正二・三年(1461・62)に御器所の佐久間美作守と熱田社の地下人との間で盗み馬の事でトラブルが起き、その事が幕府内でも問題視されたというもので、その際に恵雲院領・尾州御器所の佐久間がこの事件で欠所地処分(所領没収)を受ける事になった場合に恵雲院領分が巻き添えにされる事を懸念しているもので、これから佐久間美作守が相国寺の塔頭と思われる恵雲院の御器所の所領代官を請け負っていた事が考えられる。
また前出の龍興寺に、一つの位牌が残っている。「龍興寺殿半入玄心居士 城主佐久間大学 天文八巳亥(1539)十一月廿八日」これは佐久間氏の始祖家村から数えて十二代目にあたる盛通だと思われる。盛通には四人の子がありそれぞれが、当時尾張で台頭してきた織田信秀に仕えた。その長子が盛明で、政明、政実、政勝と続き、後に徳川家の旗本となる。二男が盛経でその子が、信長の名が知れ渡る桶狭間合戦で討ち死にする大学盛重である。三男の朝信の子が織田家宿老として数々の戦で活躍し、石山本願寺攻め総大将にまでなりながら後に織田家を追われた信盛である。四男は朝次と言い、その子が御器所城主の盛次である。そしてこの盛次と織田家家臣団筆頭の柴田勝家の妹との間に生れたのが盛政、安政、勝政、勝之の四人兄弟である。柴田勝家と羽柴秀吉が信長亡き後の覇権を争った賤ヶ岳合戦で盛政と勝政は死んだが、安政、勝之は生き抜きそれぞれが徳川幕臣となり、安政は飯山藩主に勝之は長沼藩主になったのである。しかし残念な事に当時の事情で両藩とも数代で改易となり、大名としての存続はできなかったが、安政の娘の嫁ぎ先が佐久間の名跡を引き継いだ事により、後に佐久間象山という偉大な人物を輩出することができたのである。
このように佐久間氏は、平安期に関東で平氏の一族として誕生し、鎌倉幕府創設に尽力し絶大な力を誇った三浦氏、北条氏と死闘を繰り広げた和田氏と姓を変えながら連綿と武士の世を生き抜き、尾張に勢力を誇る一族となったものだったのである。作家・楠戸義昭氏がその著書『戦国佐久間一族』の中で言うように、枝葉であった佐久間氏と同様に、一本の大木の根や幹であった三浦氏と和田氏も、幾多の盛衰を繰り返しながら血脈を保ってきたのであろうか。尾張に行かずに安房に残った佐久間一族の者たちも、彼らと運命を共にしたのであろう。歴史とは個々の部族や個人の歩みの積み重ねによって作られる物なのかもしれない。我が家の家紋が、遠く三浦氏や和田氏の旗印や佐久間象山の胸に輝いていた物だと思うとその歴史と謂れに、大きな誇りと後世に伝えるべき重い責任を感じざるをえない。
参考文献
『三浦党の後裔 鬼玄蕃と学者象山(佐久間氏)』 多々良四郎著
丸井図書出版
『戦国 佐久間一族』 楠戸義昭著 新人物往来社
『三浦一族研究』創刊~八号 三浦一族研究会
『相模 三浦一族』 奥富敬之著 新人物往来社
『科野佐々礼石』 橘鎮兄著 會眞堂
『三浦大介義明とその一族』 三浦大介義明公八百年祭実行委員会編