津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

竹田永翁の最後について

2011-04-17 09:33:27 | 歴史

 五回に亘り金沢在住の吉原氏の「佐久間氏に関する論考」をご紹介した。その前に私は佐久間勝之が竹田永翁を討ち取った人物とご紹介したが、これはどうやら断定するにはいささか疑問があるように思える。ご厚誼をいただいているTKさまから、次のようなご教示をいただいた。感謝申上げる。

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大坂陣で佐久間勝之の討ち取った首につきまして、かねてより一寸疑問を抱いてます。慶長二十年五月七日竹田永翁は天王寺表へ出役しています。天王寺表の大將は毛利豐前守吉政で、天王寺の南門筋に陣取り、その左先頭には淺井周防守井頼、其左に結城權之助、其左に竹田永翁が、それぞれ幅五十間程の堀切を前にして天王寺東門口に備を立てました(鵜飼佐太夫大坂陣繪圖、大坂御陣覺書)。竹田永翁麾下の人數は百騎です(毛利系傳)。さて「佐久間軍記」に『人のかたに掛り退敵御座候を大將と見、乘よせ言葉かけ候得者、竹田永應のよし名乘申間、則討捕申』とあるのですが、一方で「おきく物語」には、『御臺所へ出申候へハ、武田榮翁くろき具足を着て居申候、其外に見知らさる士も二人居申候』
とあり、既に大坂城中に引揚げているようです。どちらの史料も必ずしも全幅の信頼はできませんが、「慶長日記」にある五月『廿日、竹田永翁首[佐久間大膳亮か家來討取進上申候]』という事と、「竹田範十郎先祖附、寛政四年八月竹田半彌書上先祖附、細川家記、駿府記、土屋知貞私記、北川遺書記、松原自休大坂軍記、大坂御陣覺書、大坂籠城記、豐内記、寛文九年佐々木道求大坂物語」等にあるように、五月八日竹田永翁が君側で自害した事は確かだと思います。では佐久間勝之が討ち取ったのは誰でしょう。一つの可能性として、大坂陣で戦死した法印竹田定白が挙げられると思います。定白の號は、「寛政重修諸家譜」に英甫、「竹田家譜」に永翁齊とあります。仮に「佐久間軍記」にあるように戦場で名乗ったとしても、物際の騒がしい中エイホとエイヲウを聞き違える可能性もあるかもしれません。実際に冬の陣の本町橋筋の夜討で、槍の相手が岩田と名乗ったのを戦後イワサと覚えていたという武士の事例もあります(兵用拾話)。ただし「竹田家譜」では定白は大坂落城の際に城外の竹束の上で自害とし、佐久間との取合いについて記載はなく、真相はよくわかりません。それにしても七日に取った首を二十日になって進上したのは何故でしょうか。名が知れていれば直にも進上しそうな気もしますが、これもよくわかりません。

参考:おきく物語
   http://www.j-texts.com/kinsei/okiku.html

コメント (2)
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