津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

与一郎忠隆君かこと

2011-04-04 09:17:27 | memo

与一郎忠隆君ハ福智山落城以後、丹波・丹後の堺高守城 宮津より五里、福智山より三里、大江山より弐里也、初の御城代ハ中嶋備中・荒木善兵衛也、備中ハ御ミつ様(忠利)へ御付江戸へ参り、善兵衛一人ニて守り候故、田辺御籠城の時ハ一所ニつほミ候也 に御座候処、御内室様御離縁の事より忠興君機嫌を被損、一生御牢人被成候也

加賀中納言利長の妹ハ忠隆君御内室なれとも、家康公仰ニて、御双方御縁者振不被候、然るに当(慶長五年)七月秀林院様御生害の時、忠隆君の御内室ハ加賀の屋舗ニ御立退被成候、忠興君是を被聞召、加々山少右衛門・牧新五を御使として与一郎様江被仰候ハ、今度其方室加賀の屋敷ニ被立退候儀幸と存候間、不通可被仕被仰遣候 御請ニ仰畏り奉存候、内々思召の如く存居候との事也、然処ニ頃日御内室京より高守へ無理ニ御越ニ付、さすが見はなし難く思召其儘被召置候を、忠興君御腹立ニて被成御座候、折節御国替にて候間、豊前江足ふミも無用たるへきと被仰出候、依之光寿院様なと御侘被成候へ共御合点なく、豊前江御下り候ハヽ御切腹可被仰付旨ニ御座候故、高守より直ニ加賀江御夫婦御越被成候 河北加兵衛 初名甚吉 達而御諫言申上候得共、御用ひ不被成候間無是非御供候一両年相勤、慶長八年ニ豊前ニ下り領地弐百石被下候、加賀にても家康公の思召を憚り金沢江ハ呼ひ不申、大聖寺ニ置申候而次第ニ不会釈ニ御座候故、又京ニ御上り、公儀江御訴訟之趣も有之候得共、御父と御不快の儀故格別に被仰付事難叶由ニ付、やかて御剃髪にて休無と御改め、京都ニ御住居被成候、後年ニ至り三齋君御和睦被成、忠利君より御知行三千石被遣候也
                    (綿考輯録-忠興公・上p388)

(寛永十九年)八月、休無様初而八代江御出被成、同冬御帰京之時ニ三齋君より守家之御腰物被進候            (綿考輯録-忠興公・下p305)

細川忠雄家譜は、綿考輯録では窺い知れぬ三齋と休無の関係について記述している。

     寛永九壬申年 忠利公肥後国御
     拝領其冬被遊 御入国 三齋様ハ八代
     之御城へ被為 入候依之追々従 三齋様
     休無様へ被仰進候ハ御子方御同道ニ而
     八代江御下り被成候様ニ左候ハゝ宇土八代
     六万石程御料地被進往々八代之御城江
     御住居被成候様被仰進候得共御料地等
     被進候との儀甚タ御事六ヶ敷思召候ニ

     付被押移御下向之儀御断被仰上置候
     処其後猶又被仰進候ハ御老年ニ被為成
     候ニ付甚タ御作事なく被思召上候ニ付暫
     御逗留ニ被成御下候様ニと被仰進候ニ付
     寛永十九年壬午年秋八月 休無様八代へ
     為 御見舞被成御下向候同冬二至り御帰京
     可被成由御暇被仰上候処 三齋様御意ニ
     直ニ爰元江被滞候へ左候ハゝ此前追々被仰

   
     進候通御料地等をも被進御子方も御下り
     候様ニ可被成旨被仰せ候処 休無様御更ニ
     思召之旨誠ニ忝奉存候へ共私男を止メ
     候
へ共曽而両地頭主ニ無御座候間御断申上
     度奉存候ト被仰上候処重而御意ニ其
     方存知候者去年な連ども両人之男子
     之為ニ候へ共是■其通ニ被致候へと被仰候
     ニ付忰共事迄被 思召 御懇意候段
     重■ニ取奉存候二付御更申上候筈ニ

     御座候得ども忰共迚も御本家之地を賛候儀於
     私心外ニ奉存候本家ニ奉公仕候身分之者ハ
     忠勤次第後栄の■め如何様之大禄之儀
     可被下儀ニ御座候へども於私共■■難仕奉存候先
     事段 将軍家も可被召出旨蒙御内意
     候得とも 此御内意本多佐渡守正信御取次有之由 男ヲ止メ候上者強而
     御断申上候子共儀ハ私没後従本家悪クハ
     致申間敷候私存生之間ハ只々今之通ニ而
     心安ク天年を終り申度奉存候間於此事

     ハ蒙御免度奉願候被仰上候 三齋様
     御意ニ于今始メ其方之気性なりとて
     御感賞被成為御餞別守家之御腰物
     被進候 守家御腰物ハ三齋様依御武功従秀忠公御拝領被成候を此節被進候 右之御腰物ハ
     休無様御歿後為遺物 光尚公江被差上
     候右之通御断被仰上御帰京被成候御離盃
     之節者御能被仰付候此節休無様者源
     氏供養を被遊候休無様御往来熊本ハ不

     被遊御通候御供之役頭ハ野中弥三右衛門被召連
     候 三齋様御目見被 仰付其方ハ熊本二罷出
     家老中江見廻候様被 仰付往々迚も御家
     老之儀麁略ニ不存訊向仕候様ニと被遊
     御意候其外士中御目見被仰付候

 寛永十九年八代における数ヶ月に及ぶ、三齋と休無の久闊をあたためる毎日は、どのようなものであったろうか。
 休無の来訪は、三齋のたっての願いであった事がわかる。そして其の目的は、八代領六万石の継承問題である。休無に是非とも継がせたいという、三齋の強い想いが家譜の記述に伺える。しかしながら休無はこれを断るのである。再三の説得が行われるが、休無の心は動かない。この前か跡かは定かではないが、休無の徳川家直臣としての召出しの話が、本多正信を介して進められていたらしい。これについても同様理由で断っている。休無はまさしく「無」の世界に生きている。これにより八代領の継承問題は、立允(細川立孝)へと傾いていくのである。休無が帰京してすぐ、証人として江戸ニあった立允が八代に帰るのである。私たちは忠隆(休無)を「運のない人」と見てこなかっただろうか。休無の心は崇高な世界に生き、満足の一生を終えたのであろう。(前出編集)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする