4/17のブログでご紹介した、「竹田永翁の最後について」(タイトルは津々堂による)の論考をお送りいただいた埼玉在住のTKさまは、「大坂城士」の研究をしておられる。再び詳細な論考をお送りいただいたので氏のご了解を得てここにご紹介する。
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竹田永翁
『 』・・・史料引用
[ ]・・・原注
( )・・・史料名
〔 〕・・・私注
新羅三郎義光十七代裔武田大膳大夫信時の次子武田侍從定榮は典藥頭にて足利義に奉仕し、山城國〔紀伊郡〕竹田を賜り、竹田氏を稱す。號瑞竹軒。定榮に二子あり。長子源次郎定雄。織部頭を稱す。號梅松軒。初め足利義輝に奉仕し、奉行に列す。足利義輝横死の後浪々。尋で織田信長に從ひ、天正元年十二月十四日沼田彌五郎知行分七十貫文の外、所々散在の知行地を宛行る。尋で豐臣秀吉に奉仕す。庭奉行を勤む。法名玄叔應和。妻は若狹國熊川城主沼田上野介光長の三女。〔文祿五年十一月廿八日『侍從女房夏以來幽齋庵ニ在之、今度自准后彼母儀ヘ被仰理、幽齋、同女房無別義歸宅、母義ヨリ竹田梅松内義、御いま入來、於侍從夕食、予、同女、孫各相伴、令滿足了』(兼見卿記)〕次子法印典藥頭永雄。定雄に四子あり。長子藤松。松井新介康之〔妻は沼田光長の長女〕方にて育置かれ、天正十五年十二月十九日知行百二十五石賜る。慶長三年二十七石七斗加せらる。慶長五年美濃表合戰の軍功により百石加せらる。長じて松井苗字を賜り、松井長介定勝を名乘る。慶長七年正月全て七百石を賜る。後に織部助を稱す。入道號正。正保四年四月十四日熊本にて死去。次子源助長勝、竹田家の家督を繼ぐ。豐臣秀頼に仕へ、大坂落城の砌、千疊敷御殿にて切腹。三子藤四郎永翁。四子半左衞門。定勝に二子あり。長子竹田權右衞門長雄〔九兵衞政之〕は加藤忠廣の推舉により鍋島勝茂へ召出さる。其嗣子權右衞門正眞、實は中野宗閑の子なり。其子文右衞門武眞。其子文右衞門信眞。代々肥前鍋島家臣たり。次子松井角左衞門定信號節哉、定勝の家跡を繼ぐ。延寶八年九月病死。實子志摩丞早世しければ前川彦左衞門正信の次子次助に養女〔孫娘〕を配して角左衞門定頼と稱す。全て千石知行す。正五年正月病死。其嫡子角左衞門季定〔四郎大夫定雄〕號一節。代々細川家老臣松井家家司たり(御給人先祖附、先祖由來付、竹田範十郎先祖附、寛政四年八月竹田半彌書上先祖附、鍋島文庫藏諸家系圖、津金寺文書、佐藤行信氏藏文書、永祿六年諸役人附、義演准后日記)。
竹田織部頭定雄號梅松軒の三子竹田藤四郎號永翁、豐臣秀吉、豐臣秀頼に奉仕し、近習役を勤む(竹田範十郎先祖附、綿考輯録)。天正十九年八月五日豐臣鶴松逝き、豐臣秀吉哀惜の念なほやみ難く日夜悒々として樂しまず。『文祿元年正月十六日武田永翁方より申送りける趣に付て秀吉公への御進歌永翁まて被遣候、御贈答の冩
太閤樣若君樣を過し夜御夢に被成御覽、御こたつの上に御泪落たまり申に付、一首の御詠歌被遊候、納心有て御進歌尤に候、
大閤樣
なき人の形見に泪殘し置て行衞しらすもきへはつる哉
正月十六日
惜からぬ身をまほろしとなすならは涙の玉の行衞尋ねん
御詠歌拜見候、及ひなき私さたのものまても泪の袖雨にもまさり候、扨て、おしからぬ老の身を幻となしても、若君樣の魂のありかを尋ねまほしき心の底を聊か申し述へ候、宜しき樣に御取りなし御披露仰せのところに候也、
正月十六日 幽齋玄旨
永翁老 玉床下』(綿考輯録)
『〔文祿四年長岡忠興〕秀吉公の召によつて伏見に御のほり候時、藪の内より年の程五十計なる人出て、與一郎樣にて御座候哉、密に申上度事候と申ける故、傍に御立寄被成候へは、今度御召の子細は、秀次公に御一味之由三成訟申候て、御切腹可被仰付との事なり、自是丹後へ御歸國可然由申上候、忠興君聞召、身に於て科なけれハ直ニ伏見に至り、其旨申開くへし、其方ハ如何成者なるそと問せ給へとも、答なくして逃去り行方を不知と也[一説竹田永翁なりといふ][或は石田三成が手の者なるか]夫より直に伏見の御屋敷へ御入、御歸着之趣被仰上候へは、秀次に一味し黄金百枚借候由、實否分明之間は閉門可仕との被仰出也、或日石田、長束、田、前田善院なと相談にて忠興君へ切腹いたさすへきとの書簡被調由也、善院ハ日比御中能かりけれハ、手を叩て坊主衆茶を持て被參よと被申しか、竹田永翁を呼[竹田家記ニ永翁儀、太閤樣御近衆ニ被召仕、内外之御目附役相勤候故、五奉行衆參談之席にも無遠慮、罷免出候とあり]〔中略〕一口飮て熱しとて返しさまにきつと白眼まれけれは、永翁心早き者にて是を悟り、急ぎ佐渡守所へ行、御奉行衆より忠興君へ御切腹の儀申來るへし、御奉書にてハなく私状と見へ候と善院の風情迄を語り候へとも、評議代りけるにや、其状は不來候、[一書奉行衆爐を取卷き、誰彼と名を書き、與一郎と有時、三成火箸を以切ル眞似をす、折節永翁茶を持來て居たりけれハ、是を避んとにや、善院茶熱しとて返され、石田にきつと目くハせせしと云々、一書ニ忠興公若討手來らハ御一戰有へき御覺悟にて備を定め置給ふと云々]其後も永翁方より石田か讒口頻なる由、康之に告知せ候』(綿考輯録)慶長十六年三月豐臣秀頼の上洛に供奉す(秀頼御上洛之次第)。慶長十七年五月四日晝大坂天滿の織田有樂亭茶會に招かる。黒田筑前守長政、石川肥後守康勝參席す。十一月二十四日夜織田有樂亭茶會に招かる。京都住人是庵、毛利河内守秀秋參席す。十二月二十七日朝織田有樂亭茶會に招かる。生駒宮内少輔正繼、槇島勝太重宗參席す(有樂亭茶湯日記)。十二月三十日日野資勝、竹田永翁へ杉原一束、燒物一貝を送る。同日永翁より禮状到來す(資勝卿記)。慶長十九年五月四日晝織田有樂亭茶會に招かる。松大炊、石河伊豆守貞政參席す(有樂亭茶湯日記)。九月廿三日當番にて眞木島玄蕃頭昭光、溝口新助、竹田永翁登城す。豐臣秀頼より双方撤兵の使者として、片桐東市正且元邸へは速水甲斐守守之、今木源右衞門一政、織田有樂邸へは眞木島玄蕃頭昭光、竹田永翁各々差遣さる(淺井一政自記)。同年大坂城に籠る。馬上五十騎、鐵炮七百挺、雜兵七千餘人預る(大坂口實記)。『一、武田永翁、是ハ大閤御咄衆ニて御諫役、仕人ニてハ無御座候』(大坂陣山口休菴咄)『一、五百石計、大閤之時祐筆、秀頼公へ被付候、大坂陣五六年前ヨリ物頭ニ被申付、千計ノ大將、竹田永翁』(土屋知貞私記)『四千石、太閤之時右筆、秀頼公ヘ被仰付、大坂合戰五六年前、物頭ト成、足輕大將、三千人斗預ル、竹田永翁』(攝戰實録)『武田榮翁、千石、或は竹田に作る、榮翁は秀吉公の時祐筆なり、後に四千石を領せりと云々』(新東鑑)十一月二十六日午の刻より七組の衆、木村主計忠行、竹田永翁等、鴫野口へ出役す(大坂御陣覺書、大坂籠城記)。竹田永翁内西川善左衞門、鴫野口にて敵首一級を斬獲す(武家事紀、高松内匠武功)。『一、大野主馬抱へ之者、上下壹萬貳千人之分、扶持方馬乘ふちまて當月分渡由申候、是は永應与申坊主一所ニ而、秀頼の藏を明ケ、金銀米迄まゝニいたし、天正十五年の判金も牢人とも出し申候を見申者申候事』(後藤庄三郎家古文書慶長二十年三月十三日付松平右衞門大夫正綱並後藤庄三郎光次宛板倉伊賀守勝重書状)慶長二十年三月十七日妙心寺の寺僧、大野主馬首治房へ密書を送り、小幡勘兵衞景憲は關東の諜者たるを告ぐ。翌十八日晝大野主馬方にて岡部大學則綱、武藤丹波守、竹田永翁等寄合ひ小幡の處分を議す(景憲家傳)。『右談合之場にて竹田永翁申は、妙心寺の状共理不聞候、伏見城中に勘兵衞忍ひて罷在、隱岐殿〔松平定勝〕、伊賀殿〔板倉勝重〕と竊にからくり候はゝ、 御所 將軍の前は相濟候、左候はゝ何事に又大坂へ可參候半哉、其上昨日は百騎餘の人數を抱へ候へとて三千枚の金子を與ふる書立を達而斟酌仕候へは、人抱裏切の事にもあらす、彼人少も子細は無見得たり、結句あなたより勘兵衞大坂へ參候を聞、伊賀守武略者に而、出家に申付、訴人をさせ、此方に勘兵衞を殺させて、御所へ申、舊冬の無事に籠城の牢人共さへ扶持可放と誓詞の上、何の爲に勘兵衞を呼越、殊に成敗は不思儀成と有而、去年大佛の鐘の銘難題の如く又可被申候、大坂の惣堀既に三の丸迄埋、手も足も無之樣に仕り、押懸可申武略は殿の御身上危く覺たり、此勘兵衞成敗は必不可有、但其身を呼て有の儘に御尋而、返答の樣子を見玉へと』(景憲家傳)同日七ツ頭に大野主馬方へ小幡を呼寄せ、岡部、武藤、隨雲院を以て之を訊問す(景憲家傳)。五月七日大坂衆、天王寺表へ出役す。天王寺表大將毛利豐前守勝永、天王寺南門筋に陣取る(大坂御陣覺書、鵜飼佐太夫大坂陣繪圖)。毛利が左先頭淺井周防守井頼、其左結城權之助、其左竹田永翁なり。何れも幅五十間程の堀切を前にして天王寺東門口に備を立る(鵜飼佐太夫大坂陣繪圖)。竹田人數百騎(毛利系傳所載くひ帳)。堀切の先へ淺井が鐵炮の者十餘人張出す(鵜飼佐太夫大坂陣繪圖)。大野修理大夫治長が右先頭、毛利が左先頭に並ぶ。大野が旗本は天王寺北東毘沙門ヶ池の南に備を立て、六日の敗殘兵も其隸下に屬す。大野が旗本の背後、小長谷山の北西に右備堀田圖書頭勝喜、野々村伊豫守吉安、左備眞野豐後守頼包、木駿河守正重、伊東丹後守長次等寄合組押續く(大坂御陣覺書、武編年集成、木傳記)。毛利が右手に石川肥後守康勝、其右に篠原又右衞門忠照備を立る。篠原の右前阿倍野街道沿に吉田玄蕃頭重基陣取る(鵜飼佐太夫大坂陣繪圖)。小笠原秀政は天王寺表阿倍野街道に兵〔騎士二百七十餘、歩卒三千餘人〕を三段に分けて備を立る。毛利が旗本は堀切の後に扣へ、毛利が先手は堀切の前に備ふ。毛利が左先頭竹田永翁、諸勢に勝れ出張る。午ノ下刻眞田左衞門佐信繁、鐵炮足輕を小笠原が左軍に差向け挑發す(寛永諸家系圖傳)。小笠原秀政、先手の衆を勵まし之を追撃せしむ。竹田永翁、弓鐵炮を雨の如くに打掛け、其側背を衝き、足輕大將使番白岩市右衞門光重、足輕大將使番森下善兵衞爲重等を討取る。小笠原秀政、大に怒て二陣の衆を押出す。折柄毛利豐前守、本多忠朝を討取り、竹田永翁方へ使を馳て備を立替んと請ふ。竹田永翁肯はず、吾槍を始めて後兔も角も指揮せらるべしと返答し暫時奮鬪す。小笠原勢々人數を繰出し揉立てければ、竹田永翁辟易して天王寺東門の方へ少々退く所を、毛利豐前守、兵を繰出し之を救ふ。小笠原が二陣の衆、勝に乘じて備を亂して溝を越て追行んとす。其時大野修理大夫治長組中、嶋伊豫守正守、石川肥後守康勝、毛利組結城權之助等、小笠原が二陣の右軍を衝く。小笠原秀政、旗本を繰出し、右軍を救援せんとし、勝敗決せざる内に毛利式部、大野が後軍を引率して横合より小笠原が左陣に打懸り、侍大將小笠原主水政信、侍大將岩波平左衞門重直等を討取る。時を移さずして毛利勝永自身兵を馳せて左横合より責懸り、小笠原秀政に重創六箇所、小笠原忠政に重創七箇所を負せ、小笠原忠脩を討取る。然共終には此口にても大坂方總敗軍し諸將離散す。竹田永翁も城を指して引退く(笠系大成、譜牒餘録、寛永諸家系圖傳、寛政重修諸家譜、毛利紀事載くひ帳、難波戰記、國朝大業廣記、保科家傳、大坂記、武編年集成)。
一、七日歸城の途中佐久間勝之に討取らるとする説
『歩者はかり召連、御先手へ參、天王寺邊にて敵にあい申、二人のもの敵の中へむたいに掛入んと仕候を、私〔旗本前備佐久間大膳亮勝之〕をしとゝめ突かゝり、兩人ともに高名仕候、わたくしも能者あらは手にかけ可申と見まはし申所に、人のかたに掛り退敵御座候を大將と見、乘よせ言葉かけ候得者、竹田永應のよし名乘申間、則討捕申、召連候歩のものともに下知仕、みな手をふさかせ候』(佐久間軍記)『〔佐久間勝之〕五月七日天王寺表にをひて竹田永應を討取』(寛永諸家系圖傳)『〔五月〕廿日、竹田永翁首[佐久間大膳亮か家來討取進上申候]』(慶長日記)『〔五月二十日〕佐久間大膳亮勝之[初守政ト稱ス]ガ從士竹田榮翁ヲ討取リ首級ヲ獻ズ』(武編年集成)
一、歸城して翌八日豐臣秀頼に供して自害すとする説
『落城之日長局に居申候、中々いまだ落城なとゝはおもひもよらす、時にそばの粉のありけるを取出して、其下女に申付、是をそば燒にして來れと申ける故、其者ハ御臺所へ參候跡にて玉造口の方ハ燒ヶ申候と申候、其外所々やけ申候と申し〔事之〕外さハきたち候故、千疊敷の御櫞側へ出申候得ば、能何方も見え候故、出見申候へハ、なる程所々燒立候故局へ歸り、帷子を取出し、三ツ重て下帶も三ツして、秀頼公より拜領の鏡を懐中して、御臺所へ出申候へハ、武田榮翁き具足を着て居申候、其外に見知らさる士も二人居申候、女中にあるひはしらさる士、御臺所外にて、肩口の疵を見て給ハれ、上帶をもしめて給ハり候へと申聲をも聞なから、其女中は如何しめされ候や、かまひ不申さしいそき出申候、女中方出不申樣に榮翁申候へ共、夫にもかまひ不申出候』(おきく物語)『〔豐臣秀頼、櫻門より天守に戻り〕永翁ヲ召テ、諸道具不殘殿守ヘ上ケ、燒草ニセヨト仰有』(豐内記)五月八日君側に於て自害す(竹田範十郎先祖附、寛政四年八月竹田半彌書上先祖附、細川家記、駿府記、土屋知貞私記、北川遺書記、松原自休大坂軍記、大坂御陣覺書、大坂籠城記、豐内記、寛文九年佐々木道求大坂物語、道夢聞書、井伊年譜、天慶日次記、武大成記)。
〔竹田永翁天王寺表より城中に引取、君側に於て自害せし事、實なるべし。按ずるに佐久間勝之に討たれしは竹田英甫ならん。〕
竹田半左衞門の子平太夫。松井佐渡守康之の妻自院沼田氏〔沼田上野介光長が長女〕の口添により細川忠利へ召出され、百五十石を賜る。江戸に於て數年奉仕せしが、主の氣に背き、暇乞て筑後國三池に下り一年程浪居す。有馬陣にて立花宗茂手に屬し、首尾宜しければ、細川家へ歸參を許され、歸陣後先知百五十石を賜る。慶安二年三月三日江戸下向に供奉す。時に林外記組に屬して知行三百石。其子安右衞門、寛文七年父の跡目を繼ぐ。其子早之允。後に平太夫を稱す。元祿十一年七月父の跡目を繼ぐ。小姓頭二百石〔飽田郡松崎百十四石一斗一升一合三勺七才、上代南上野三十五石八斗八升八合六勺三才、上玉名内田手永津留五十石〕を知行す。其子平太夫定能。享保十四年九月父の跡目を繼ぐ。其次男家督半彌。其嫡子半十郎。其養嗣子半十郎。其子範十郎。子孫代々肥後細川家臣たり(竹田範十郎先祖附、肥陽諸士鑑)。