「金沢城主・佐久間盛政その名跡に関する一考察」
吉原 実
天正八年(1580)より四年間であったが初代金沢城主であった佐久間盛政は、天正十一年に叔父である柴田勝家の元、賤ヶ岳の合戦に参加し敗れ後に京で斬首された。盛政の娘虎姫は生き延び、後に羽柴秀吉の武将、新庄直頼の養女となり、父盛政が賤ヶ岳の合戦の折、大岩山の戦いで討ち取った中川清兵衛清秀の次男中川秀成の奥方となったのである。
二人の間にできた子、七男内記(勝成)に盛政の佐久間家再興を託そうと考えた。盛政の一番下の弟である信濃・長沼藩主佐久間勝之の娘と添わし、その間にできた子を佐久間と名乗らせ盛政の名跡を継がそうとしたが、残念な事に子はできなかった。一方、中川家の方にも大変な問題が起こっていた。虎姫とその夫中川秀成が続けて他界し、家督を継いだ久盛には久清という男子が一人しかいなかった。それは弟大蔵がわずか十四歳で亡くなった為で、中川家の家督継承を心配した久盛は内記を中川家に呼び戻して、中川姓に復す事にしたのである。結局は虎姫の願いは叶わなかった。ここに豊後・岡(現竹田市)に残った佐久間盛政の血脈は中川家に残り、その家督は引き継がれなかったと筆者は考えていた。
ところがその後の調査で、「士林泝」、「尾張群書系図部集」、「尾張國諸家系図」や佐久間一族の名古屋にある菩提寺、龍興寺所蔵の系図等にその名跡を継いだ家が江戸期まで続いていると記載されている事が判明したのである。それは尾張・徳川家に仕えた佐久間重行家の事である。虎姫には夫秀成との間に七人の子があったが、その内の一人の娘の子にあたるのが重行となっているのである。つまり虎姫の孫に盛政の家督を継がした事になる。重行は清右衛門といい、「尾張藩士名寄」によると当時の京都所司代・板倉周防守重宗家の食客となっていたが、重宗の推挙により尾張大納言の家臣となったようである。中川秀成か久盛、長沼藩主・佐久間勝之、飯山藩主・佐久間安政などの口添えも当然あったものと思われるが、板倉家と佐久間家との姻戚関係などはどの史料にも見られない。
しかし、幕府の重臣である板倉周防守を動かす程であるからして、相当の親しい関係にあったのは事実であろうと思われる。佐久間家に対する評価が高いのであったのかもしれない。家紋も佐久間家多くに見られる「丸の内三ツ引き」ではなく板倉家から下賜されたと思われるその家紋「三ツ頭左巴」であり、その名にも板倉家に多い「重」の一字が付いている事からしても、板倉家との親密さが読み取れる。重行の子、重直(角左衛門)は上州安中・坂元両所奉行を任されており、藩内でもかなり重用されていたようである。次の重勝(八兵衛)は三百石で藩主のお側小姓、足軽頭を勤めていたようである。続いて重賢(源兵衛)馬廻り小頭を務めている。次に重豊(清右衛門)百石で馬廻り。雅重(源兵衛)、この人の時に佐久間より本姓三浦に戻している。
尾張藩における弓の名人として名をあげたようで足軽五十人頭を務めていたが、子が無く、どの資料もこの人の代で絶家したとなっている。しかし他の尾張藩内の佐久間・三浦家に無いその家紋や家禄から見ると、現在名古屋にその子孫と思われる方がおられ、血脈だけは保たれたのかもしれない。
実はもう一家、盛政の名跡を継いだと伝わる家がある。紀州・有田の豪族、保田氏の系統である。盛政の弟安政が紀州と河内の守護、畠山昭高の家臣であった保田佐助知宗の婿養子となり、保田安政と名乗っていたのは『信長公記』や『佐久間軍記』などにも書かれており真実と思われる。安政の義父・知宗は、天正四年五月の石山合戦・三津寺城攻めの折に討ち死にしてしまうが、その知宗が盛政の養子になったと書かれている系図がある(笠松系図)。安政が知宗の養子となった事と混同されていると思われるが、知宗には弟重宗がおり、この人も賤ヶ岳で討ち死にしたとなっている。しかし、その後、重郷、重之、重吉と続き大庄屋として明治維新まで来ている。保田氏より分かれ、笠松氏を名乗っている。地元、和歌山県の史料には重宗が盛政の養子と書かれた物もあり、かなり錯綜している様子であるが、この家の三代目重之が尾張の佐久間重行と同人物である事の可能性も無いとは言えないのではないだろうか。尾張の佐久間重行と同時代の人であり、紀州と尾張共に徳川家縁の藩であり、幕府の重臣・板倉周防守重宗が尽力した話でもあるので、十分考えられる事である。単なる筆者の憶測であるが、今後の尾張・紀州関係の新史料の発掘に期待をかけるしかないようである。
次に、岡藩の佐久間数馬資則家の事を述べたい。この家は盛政の弟、勝之の直系となる。代々岡藩の御典医をされていた地元の名家だそうである。盛政の娘虎姫の子、内記(勝成)と盛政の弟佐久間勝之の娘の間には子ができず、内記自らも中川家に帰り虎姫の望んだ佐久間家再興は叶わなかった事は前にも述べた。その勝之の娘を再嫁させるため、中川家の初代で賤ヶ岳の合戦で討ち死にした中川清兵衛清秀の奥方やや(熊田姓)の甥の子、熊田藤助を中川家に迎え中川隼人正資重と改名させ結ばせたのである。二人の間には平兵衛という男子ができ、その子に佐久間姓を与え佐久間数馬資則と名乗らせ新しい家を興したのである。つまり現当主が十一代目にあたる佐久間勝之直系もしくは熊田家直系の家なのである。盛政の血脈は中川家に吸収されてしまったが、それに代わりこの家が、地元で代々盛政や虎姫の菩提を弔ってきたようである。当時の人々は、よほど佐久間という名を残したかったようであるが、結果的には勝之の血が新生佐久間家として豊後に残った事になった訳である。
このように、その武勇で名をはせた佐久間盛政家の名跡は、様々な形で江戸期から現在に受け継がれたようであるが、今後の研究成果により、より詳しく解明される事であろうと筆者は考える。
参考文献
『士林泝』 名古屋叢書続編 第二十巻
『尾張群書系図部集』 続群書類従完成会編
『尾張國緒家系図』 加藤國光著
『藩士名寄り』さ上 林 政史本
『寛政重修諸家譜』 第二 板倉系図
『寛政重修諸家譜』 第五 中川系図
『佐久間重行家について』 佐久間凡雄著
『有田市史』『清水町史』『清水町文化9・10号』
『中世武士団と地域社会』高橋修著 清水堂出版
平成17年 石川史学会々誌第38号掲載
以下、「佐久間・中川・熊田各家関係系図」があるが表示不能であるため、後日表示することとする。