津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「吉田傳太復仇現聞禄」を読む

2011-04-05 15:04:47 | 歴史

 ある方からのご依頼で黒瀬市郎助のことについて調べている。いわゆる横井小楠の「士道忘却事件」の発端となる殺傷事件の首謀者である。横井等三名が酒宴を張っているところを数名の刺客に襲われ、江戸留守居役の吉田平之助が大怪我をして後日死去、中小姓頭の都築四郎も傷を負い、横井は敵に立ち向かうことなく刀を取りにこの場を離れ、士道にあるまじき事として非難を受けた。亡くなった吉田平之助の子・己久馬(19歳、後・傳太)は苦労七年に及び、ついに黒瀬市郎助を豊後鶴崎にて敵を討った。

私事で恐縮だが、私の曽祖父(穿鑿役)がその顛末を「吉田傳太復仇現聞禄」として書き残しており、これが大変役に立った。(吉田傳太復仇一件聞取書というものもある)

この事件は横井の「士道忘却事件」としてクローズアップされるが、事件による処分や、傳太ら一族の苦労がかき消されている。この「吉田傳太復仇現聞禄」をご紹介しようと、タイピングに懸かったが、カナ使い文であるため大変苦労している。近々UPしたいと努力中である。

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中津から小倉へ、そして又

2011-04-05 11:18:28 | memo

 慶長五年の暮れも押し詰まった頃、豊前の太守として忠興は中津に入った。
六年の暮れには幽齋が初めて中津を訪れたことは先に書いた。
このとき忠興の弟・興元が出奔している。興元は小倉に在城していたが、松井氏とともに両家老職としなったが、陪臣となることに憤り「黒田甲斐守長政と密に諜し合せ、長政より小倉の大橋に迎舟を越され、大坂ニ遁れ被行候」という大事となった。
忠興が居城を小倉に動かすこととし、年明けには早速行動を起こしている。

「慶長七年小倉を御居城ニ可被成と被思召、正月十五日鍬初被仰付候、廿六七日之比、小倉ニ御越被成御縄張被仰付、御家中ニも丁場の割被仰付、其後も度々御出被成候」

「十一月中旬、小倉城御普請成就し、下旬御入城被成候 御普請相勤候面々御賞美の御意御座候 中ニも(有吉)武蔵守立行身代ニハ過分ニ人数持兼て心懸候故、軍役・普請等格別ニ手廻し宜敷被思召候由也」 綿考輯録-忠興公・上p418

中津城は与五郎興秋が城代を務めたが、後忠利の居城となった。忠利不在の時は志水宗加が預かった。

元和七年正月七日、嫡子忠利が家督すると忠興は中津へ移り忠利と入れ替わることとなる。一書に「六月廿三日、小倉より中津ニ御隠居被遊候、中津之御普請ハ五月より俄ニ被仰付候と云々、又六月三日小倉を御譲被成候とも有」とある。そして家臣のうち選抜された人々(三齋君ニ御奉公御知行被下置面々 143人・42,093石)が、中津へ移っていくのである。 綿考輯録-忠興公・下p106~

 

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