数日前、金沢在住の吉原氏の佐久間氏に関する論考をご紹介した。そのご佐久間勝之が討った(?)と伝えられる竹田永翁についても埼玉のTK様の論考等をご紹介してきた。
「おきく物語」にその竹田永翁が登場しており、永翁が大坂城内で死亡したことをうかがわせている。
おきく物語 http://www.j-texts.com/kinsei/okiku.html
この「おきく物語」の編者(?)は、細川家家臣で忠利に殉死した田中意徳の関係者らしいが、意徳が祖母おきくから伝え聞いたことを記したとされる。関係する資料を付き合わせてみると、いささか辻褄が合わなくなってくる。
先に東京の「ツツミ」様から、次のようなコメントをいただいた。(一部編集)
忠利公の殉死者の中に「田中意徳」の名を見つけ、滅多に無い名から、『おきく物語』書き出しに「田中意徳(割注・池田家の醫也)祖母は。大さかにて。よど殿に。つかへし人にて。云々」とあるのと同一人物なのか否か、と考えていましたが、既に2年近く前に、やはりTK様との間で、この件に関してやり取りがあったようですね。割注の内容と、文禄から慶長の初めに忠利公と共に学んだ人物の祖母が、大坂落城(慶長二十年)の際に二十歳という有り得ない不自然さから考えると、肥後の「田中意徳」は、『おきく物語』に名の有る意徳では無いようにも思えます。(中略) 『おきく物語』も、城を出る常高院(浅井初)を「要光院」と記していたりするので、何処までを史実と捉えるべきか、意徳の件も含め、史料の扱いの難しさを、考えさせられます。
さて細川家資料にみえる田中意徳とは以下の如くである。
■意徳(以得)
元来上方出生之者ニ而、いまた御家に不被召出幼少之節、妙解院様(忠利)於愛宕山御学文被遊候節(文禄三年五月愛宕山福寿院に御登山、慶長三年二月御帰国被成候--吉山市右衛門家記)御一同ニ学文仕候処、昼夜御出精被遊、意徳儀段々心を付奉り御介抱仕上申候、或時御側近被召寄、御出家可被遊旨御内意被成下候間、乍恐最三御留申上候、右之儀共後ニ御満足被為思召上、以後被任御心候節は御知行をも被下、御懇ニ可被召仕之旨、度々御意被成下候、然共御互ニ幼年之儀故其後意徳は存懸も無御座候処、於豊前御代に成早速意徳を上方より被召寄、御知行弐百石被為拝領候 (綿考輯録・巻二十八)
【忠利殉死】
寛永十八年(1641)六月十九日 五人扶持廿石 六十三歳
於・坪井泰陽寺 介錯・加藤安太夫
跡式妻子に五人扶持家屋敷 忠利代豊前召出、忠利愛宕山学文の時に附らる
上記資料からすると意徳の生年は天正7年(1579)であろうか。忠利が55歳で亡くなっているから8歳年上である。大坂城が落城した慶長20年(1615-元和に改元)には37歳になっている。「おきく物語」をWEB上で公開されている菊池真一氏の解説によると、「菊は慶長元年生まれ、幼少より茶々(淀殿)に仕え、大坂落城時二十歳、後、松の丸殿に仕え、やがて田中意徳の祖父に嫁し、延宝六年(1678)八十三歳で没した。」とある。いずれにしても年齢が逆転しており、この意徳なる人は忠利に殉死した意徳とは別人であることは間違いない。竹田永翁についてお教えいただいたTK様は、備前池田家中に代々意徳を名乗るお宅がある事を以前お教え下さっていた。
http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/c3127539f73cf527ce85ef6970b03c95
果たして「おきく」の孫(?)なる田中意徳は、何処の何方であろうか。