金沢の歴史と歩んだ先祖たち
吉原 実
金沢経済同友会の提言から始まった「ふるさと教育」の一環として官民一体で金沢の歴史を見直す動きが活発になってきている。しかし、百万石まつりのイメージゆえか、加賀百万石・前田利家から金沢の歴史が始まった様に取られる方も多いようである。現代に先立つ二百五十年の華やかな前田家の歴史が、金沢の伝統文化に色濃くその影響を残しているゆえ致し方ない事でもあろうと思うが、それに至る前の歴史も決して忘れてはならない。
古代から中世に至り、加賀の守護富樫氏が一向衆に滅ぼされ、それ以後八十五年に渡り金沢御堂(現金沢城公園)を中心とした一向衆門徒たちの「百姓の持ちたる国」も金沢の歴史の大きな部分を占める。やがて戦国時代も後期を迎え、天正八年(1580)三月、時の秩序を大きく変えようとしていた尾張・織田信長の軍勢がその将柴田勝家の下、ここ金沢にも侵入を開始した。その先鋒に立ったのが、勝家の甥である佐久間玄蕃盛政だったのである。その猛攻の前に、門徒衆が守る金沢御堂はあえなく陥落し、盛政は十三万石を領する初代金沢城主となったのである。
しかし、門徒衆は白山麓の村々で最期まで激しく抵抗し、盛政にゆっくり城に留まらせる事を許さなかった。盛政は、白山麓・鳥越村(白山市)を中心とする山内衆と呼ばれる一向一揆門徒たちの掃討に乗り出すが、その中核となっていた鈴木出羽守の巧みな采配により、苦戦を強いられる。二度に渡る敗戦の後、巧みに講和を持ちかけ松任城(白山市)で出羽守始め首謀者たちを誘殺してしまう。その後、盛政は鳥越城と二曲(ふとぎ)城を落とし、吉原次郎兵衛(私の先祖の一人と思われる)と毛利九郎兵衛をそれぞれ城将として入れ、四百人程の兵を置いた。
翌天正九年二月、織田信長は京で正親町天皇を迎え馬揃え(軍事パレード)を開催。その為、柴田勝家始め多くの武将が全国から参加し、その防備の手薄になった隙を突き一向衆が突然蜂起した。この知らせを受けた盛政は、急いで救援に向かうが、金沢城より鳥越へ向かう途中の鶴来あたりで「城は陥落、城兵はことごとく討ち死に」という悲報を受け取る。やがて敵の真っ只中に突入した盛政は、愛馬・晴嵐に跨り、槍をふるって獅子奮迅の働きをする。この気迫に圧倒された一揆軍はたじろぎ、二つの城を取り返されてしまう。これ以降盛政は、「鬼玄蕃」と呼ばれ門徒衆に恐れられ、味方には畏敬されるのである。その姿は、京都・建勲神社の絵馬に描かれている。これ以降、白山下十六村は盛政に従ったが、吉野、佐良、瀬波、尾添など石川郡八村はなおも抵抗を続けた。天正十年三月、吉野谷村(白山市)を中心とした門徒衆が一斉に蜂起、盛政たち柴田軍は徹底した掃討作戦を展開し、春なお浅い手取川を血で染めたと伝わる。後の加賀藩への吉野村上申書には捕らえられて磔にされた者三百人、一揆を起こした七カ村は三年の間、耕す人とて無く、荒地となっていたと記されている。この様に金沢のみならず、白山麓を舞台に盛政は、織田信長軍の先鋒として戦に明け暮れなければならない状況にあったのである。その名は今なお白山市の歴史の中にはっきりと残されている。
その間にも盛政はここ金沢でも、蓮池堀(後の百間堀)をうがち西町、南町、堤町、松原町(きんしん本店のあたり)、近江町、安江町、金屋町、材木町のいわゆる尾山八町を整備し、後の城下町金沢の基盤を造ったのである。
京・本能寺で織田信長が死に、その翌年天正十一年天下の覇権をかけて柴田勝家と羽柴秀吉が賤ヶ岳で戦い、それにも柴田方の先鋒として活躍した盛政だったが、武運つたなく戦に敗れ、後に京で斬首され「世の中を巡りも果てぬ小車は火宅のかどをいずるなりけり」との辞世の句を残し、その華々しい生涯をわずか三十歳で終えた。三年間という短い金沢城主であったが、初代城主としてのその数々の事績は、その名と共に語り継がれるべきではなかろうか。
その後に入った金沢城主・前田利家より、加賀百万石・前田家の華々しい歴史が連綿と続く事になる。その加賀藩二代藩主・前田利長に仕えた佐久間半右衛門という人物がいる。織田家の宿老であった佐久間信盛の子で、盛政の父方の従兄弟にあたる。母は前田家の本家である尾張・前田城主であった前田種利の娘で、利家の父、利昌のいとこになる。
この様に元々前田家と姻戚関係にあったこの半右衛門の孫娘が、実は三代藩主・利常の子(女子)を産んでいる。しかし、この事は当時秘密とされてその子は他家に養女に出された後、加賀ハ家のひとつ前田対馬守直正の妻となり駿河守孝貞を産んでいる。やがてこの人は小松城代や金沢城代を務めた加賀ハ家の重鎮となり、その家は幕末まで続く事になる。佐久間半右衛門家も後に四家に分かれ、加賀藩士として幕末を迎える事になるのだが、その中にも特筆すべき人物が出ている。佐久間寛台(ひろもと)というその人は、藩の書物奉行兼書写奉行を務めていた。当時、加賀宝生流の能楽は爛熟期を迎えていたが、藩校・明倫堂で初代和学師範の野尻直啓に師事し学んだ教養で、その加賀宝生流最初の刊本『宝生流寛政版謡本』の注訳に取り組んだ。文化六年(1809)から三年かけ、加賀藩宝生流の謡曲二百十番の注訳書『謡言粗志』(ようげんそし)四十二冊を編纂したのである。それは加賀藩の秘本として現在に受け継がれている。
一方、我が家は盛政の弟、安政が祖であり賤ヶ岳の合戦で生き残り、後に徳川の大名となり飯山藩主(長野県飯山市)となる。大河ドラマ「新撰組」で石坂浩二さんが演じていた幕末の洋学者、佐久間象山が本家筋にあたる。残念ながら私の家は金沢と一時縁が途絶えたが、ここ金沢にもその歴史と共に歩んだ加賀藩ゆかりの先祖達がいたのである。今、その人たちは野田山・大乗寺の本多家墓地に並んだ所で静かに眠っている。
これらの史実を後世に伝えるべく数年前より活動し、石川県、金沢市など行政側にも理解を求めた所、速やかに対応して下さり金沢城公園内や『金沢市史』などの文献にも初代金沢城主・佐久間盛政の事績と名が残った。また、タイミングよく大河ドラマ「利家とまつ」にも登場した。私自身も論考の執筆や講演などを通して多くの人に史実を知って頂くように努力している。お陰で最近は新聞等にもその名を見ることができるようになってきた。それと共に、ここ金沢に我が家の家紋を染め抜いた旗が翻った時があった事に対しても、大きな誇りと感動を覚える。
「ふるさと教育」の一環として県教委の歴史副読本の編さんや前田家墓墳調査、金沢城調査研究など多くの事が行われている。これらを通して史実に沿った形での金沢の歴史を後世に余すことなく伝えて行く為には、私のようなささやかな行動など官民一体の努力が必要だと思われる。
金沢信用金庫会誌・平成17年3月掲