天正七年(1579)荒木村重は信長に対して反旗を翻す。綿考輯録は次のように記している。(忠興公・上 p17)
十一月、伊丹の城兵降を乞、城を渡し候、城主村重ハ去ル九月密に尼崎の城に遁入候
因茲信長公御下知に、伊丹城中の妻子等百五十余人を虜へ、其内村重か妻子一族三十余人ハ京都に引上せ、残る百廿余人ハ同十二月尼崎の城下七本松にて磔に掛られ候 城兵是を見聞して力を失ひ、忍ひ/\に逃落候間、村重も弥精力尽、高野山に忍ひ入候 此砌幼少の男子を忠興君ニ密ニ被預置候 後ニ荒木善兵衛と云 三十余人の者共ハ京都にて誅せられ候 其奉行として忠興君も御出被成候 女房共見知候而、与一郎様頼ミますると声々泣叫候
明智左馬助に嫁せられ候光秀の息女ハ 織田信澄の妹、秀林院(ガラシャ)様の御妹
初荒木村重の息新五郎村安ニ嫁娶也 村重反逆離縁有之、此故を以村重一類の女
房共忠興君を見知候 哀なる事なりしと後にも度々御咄成候と也 右三十人の内、郡
宗保か娘を乳母隠し置、後織田信澄の傍に召仕候を、明智光春の内方へ被遣、亦忠
興君の御前様へ被遣候、おこほ殿を産たるお藤是なり、後松の丸殿と云、寛永六年六
月十九日豊前小倉にて死去
荒木善兵衛は21年後の慶長五年(1600)、預かっていた高守城を引き払い田邊城の幽齋の元に駆けつけ、共に籠城して戦うことになる。
一方松の丸殿(藤)は3年後の天正十年(1582)、のちに松井興長の室となる古保を出産(綿考輯録忠興公・上 p43)、寛永六年六月十九日豊前小倉にて死去す。福岡県史・近世史料編-細川小倉藩に詳しい。