津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家家臣坂崎家と旗本岡田家の関係について

2013-02-15 21:37:47 | 歴史

 細川家家臣坂崎家の嫡家の初代・成政は、坂崎成方の養嗣子で、筑後牢人岡田修理の二男・源太夫である。
この岡田家がよく判らないまま随分経過した。

元和六年八月、大坂城の城普請を受け持っていた柳川城主・田中筑後(忠政)が亡くなり、幕府は継嗣が無いため封地を没収することになる。
城普請はそのまま引き続き田中家中に命ぜられた。 

このことに伴い、大日本近代史料・細川家史料(八)の元和六年八月の忠利の書状に有力な情報があった。

■ 八月十四日書状(33)
   一、大坂田中普請ハ、先家中之者ニ仕候へとの大炊殿(土井利勝)被申様ニ御座候、何も御使之衆被上候てから、右之段々家中へしらせ可申由
     御意ニより、右之様子在たるもの無御座候、然共、坂崎清左衛門(成政)ハ岡田将監親類ニて御座候故、清左衛門を尋ニ遣候ヘハ、内證被申
     越候、隠蜜ニて御座候、何も奉行衆被上候てから申出候へとの 御意ニ御座候、普請を油断不仕、又ハ家財ものけさせ被成ましきとの儀と奉
     存候事
                                  (以下略)
岡田将監は柳川城の受取の為の準備に取り掛かっている。これらの事に付(34)(35)(40)(45)等の書状でも将監の行動が見て取れる。
将監と坂崎成政の関係は定かではないが、叔父・甥といったところか(?)、そして筑後牢人というのは柳川の前の藩主・立花宗茂に仕えていたのでは
ないかと推測しているのだが、如何だろうか。解明にはとど遠い。 

岡田将監(善同)について 人名索引から
     将監。はじめ織田信長に仕へ、次いで加藤清正に属し、のち豊臣秀吉に仕ふ。慶長五年関ヶ原戦には徳川家康に属し、六年六月知行五千石。
     美濃國奉行並に近江・伊勢・筑後等の郡代を兼ぬ。のち山田奉行。寛永六年九月従五位下伊勢守。八年五月二十九日没。年七十四。 

 

 

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