津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「旦夕覚書」から・赤穂義士のそれぞれ (了)

2013-02-10 21:47:05 | 史料

 一、逗留之中津軽越中守様御内大石無人、本田中務様御内伊藤十郎太夫えも参逢申候、松平與右衛門様御内内藤萬右衛門、磯貝十郎右衛門母貞柳
   と一所に被居申候、貞柳も十郎左衛門死後病気指重り、五月二十六日果被申候、病中にも見廻申候、富森助右衛門母義は、助右衛門舎弟半左衛門、
   初は麹町に居被申候、助右衛門旦那寺浅草長延寺、十郎左衛門旦那寺芝町清休寺、近松勘六甥文良被居候所は、谷中真言宗長福寺、八丁堀松平
   伊豆守様組保生太夫近所、與力町に吉川藤次郎、同新兵衛、藤次郎儀は矢田五郎左衛門伯父に而、息作十郎小瘡煩逢不申候、右之衆中、拙者方
   へも禮に被参候事
 一、九月二十五日、御先立にて泉岳寺へ参、金子寺納いたし、出家三人同道にて、墓所へ参候事
 一、十月十日、京都へ著致候處に、寺井玄渓被訊候て、音物なと有之、初て致對面候、拙者も返禮に参候、子息玄達も在宿にて、ゆる/\語申候、玄渓
   申候は、於江戸内海道億にも御知人に御成候段、扨々御深志。於拙者も忝存候、内蔵之助存命の内、去極月十八日、同二十四日、二月三日、書状三
   通に委細申越候、死後の儀共、傳右衛門殿御京著の上承候様にとくれ/\申越候、越中様結構成被仰付、不及承御馳走共、誠以冥加至極難有、手
   紙述かたく御座候段、此上も不可有之と申越候、扨々難有儀、私式迄乍憚難有と被申、右内蔵之助書状とも見せ被申候、拙者申候は不苦候はゞ此御
   状は御寫被下候へと申候へは、安き事とて玄達寫給候、其紙面
        一筆令啓達候、兼而我々存念の通、今月十四日夜同志相催、吉良上野介殿屋敷え致推入候、家来中出会候者は、薙切に討捨、如本意上  
        野介殿討取、印を泉岳寺へ持参備亡君御影前候、春以来の散鬱憤候儀、大慶御察可被下候、貴丈にも御満足と押計申候、定而先達而欣
        悦と粗及御聞候と令推察候、御同名玄達老御登、可被相達候へとも、討入候次第、引取候様子、玄達老も委細御聞届有之間敷候に付、荒
        増書付進候、皆共えも御預に罷成候條、暫之餘命と存候内、生涯覚無之、他にも不承及御馳走共、誠以冥加至極、難述筆紙仕合に御座候、
        追付罪名も可被仰付候と相待罷在候、段々の次第、武運にも叶候儀、本望此上不可有之候、右為可得御意、餘命の内如此認置候、
        恐惶謹言
             十二月二十四日                        小野寺十内
                                                原惣右衛門
                                                大石内蔵之助
                   寺井玄渓老参

        追啓、此書付の次第、同志の者共眷属之内、若も御仕置に洩而、残候者御座候はゞ、速に被仰聞可被下候、播州亀山赤穂に有之者には、
        和田喜六より相達候様に被仰達可被下候、將又寺坂吉右衛門儀、十四日の晩迄有之候處に、彼屋敷には不見来候、輕者の儀、不及是非
        候、以上
        追而一札之事、無相違以時節御あみ立所庶幾無他候、為其如此書附達候、又々申候、此状夫々御届候はゞ、此筋より便有之との儀、面々
        沙汰不仕候様に、被仰聞可被下候
        一筆令啓達候、兼而度々被仰聞候御内存之趣承届、御尤之至、別而致感心候、然は今後一同に御下り之儀は、拙者を初、同志願立候衆
        銘々にも申談候通、御下には不及儀と存候、御志を破り候段、無本意可被思召候へとも、元来御勤方違いの貴様儀候故、御同道仕候而は、
        此方より馳催候かと、萬一人口に可悪候段、互に無本意儀に候、勿論戦場え警役にて供奉之筈之儀に候、是は流石戦場にて無之候、然は
        御止り候儀却て道理當然と存候、御身命をいとひ候て、如此申にては神以無御座候、皆共いか様にも罷成候はゞ、跡にては定而世間取々
        毀誉可有之候、年月之寸志を能御存の貴様にて候間、其時相應之噂被成被下候儀第一之御芳志と頼存候、此段御聞届、是非共に御止可
        被成候、奥野将監も此頃の上りに貴公御噂被申候、右同前に宜相心得、拙者より可申達と、呉々被申置候、猶惣右衛門、傳兵衛、源五右衛
        門、源四郎、十内等、面談可申述候、恐惶謹言
                傳言川村傳兵衛、進藤源四郎、此時迄将監一列也
            八月六日                            大石内蔵之助
                 寺井玄渓老

  一、玄渓宅は、京都柳馬場押小路上ル西側にて、内匠頭様に相働居申候、内海道億は、江戸住居にて、宕下通り居被申候由候事
 一、片岡源五右衛門妻子借宅は、伏見両替丁筋銀座にて尋参候、妻之弟有之候に逢申候事
 一、淀川船中より上り、八幡山大西坊に尋参候、本社之後に結構成住居座敷、チウタイの間の様成所も有之、段々馳走なと被致候、大西坊は二十斗
   と見え申候事
 一、大坂天満丁九丁目、茜屋次郎兵衛借宅、樋口杏庵と尋候へは、和田喜六も此所に居被申候故見廻申候、尤拙者旅宿へも被参候、是は浪人にて、
   原惣右衛門娘四人預り居被申候事
 一、速水藤右衛門頼之、大坂町與力大森次郎兵衛と申仁、天満與力屋敷に居被申候、潮田又之丞頼之状も遣し申候事
   右之通候間、貴殿御奉公も相勤、若江戸罷越被申候節、此面々ゆかりと申候て、自然尋可被申事も可有之候、其時無音なと無之様にと書置候也

                                             (了)
         

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

妙解寺の創建

2013-02-10 18:07:35 | 熊本

「細川家霊廟及び門塀保存修理工事報告書」(昭和63年3月)というものがある。ここに掲載されている、修復後の忠利公の御廟である。
着工前の写真も掲載されているが、その痛み様の激しさは心が痛むような状況である。忠利公室・保壽院、嫡男・光尚公の御廟も併せて修復された。
忠利公の廟所は瓦葺きだが、左右の廟所は鉄板葺きである。予算などが関係している。
その折り整備された門・塀も26年経過した今日では少々痛みも見受けられる。

上記報告書によると建物沿革として、「創建を直接証拠だてる資料はないが、忠利公霊廟は、寛永十九年妙解寺創立とそう時期を経ずに造営されたと思われる」としている。新撰御家譜原本においては、寛永二十年の二月に妙解寺建立成就としている。又、他の史料においては、「二月十三日追福のタメ一寺ヲ建立妙解寺ト号ス、同月遺骨ヲ移ス」とある。遺骨は泰勝寺に葬られていたとされる。

「熊本藩年表稿」によると、13日より17日まで取越法要なるものが行わたとしている。20日には三回忌法要が営まれ殉死した阿部彌一右衛門の子・権兵衛の不信の行為があり、翌21日には武内数馬・高見権右衛門以下を派遣して立て籠もった一族を誅罰するという事件が勃発した。 

 

                                            

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする