一、逗留之中津軽越中守様御内大石無人、本田中務様御内伊藤十郎太夫えも参逢申候、松平與右衛門様御内内藤萬右衛門、磯貝十郎右衛門母貞柳
と一所に被居申候、貞柳も十郎左衛門死後病気指重り、五月二十六日果被申候、病中にも見廻申候、富森助右衛門母義は、助右衛門舎弟半左衛門、
初は麹町に居被申候、助右衛門旦那寺浅草長延寺、十郎左衛門旦那寺芝町清休寺、近松勘六甥文良被居候所は、谷中真言宗長福寺、八丁堀松平
伊豆守様組保生太夫近所、與力町に吉川藤次郎、同新兵衛、藤次郎儀は矢田五郎左衛門伯父に而、息作十郎小瘡煩逢不申候、右之衆中、拙者方
へも禮に被参候事
一、九月二十五日、御先立にて泉岳寺へ参、金子寺納いたし、出家三人同道にて、墓所へ参候事
一、十月十日、京都へ著致候處に、寺井玄渓被訊候て、音物なと有之、初て致對面候、拙者も返禮に参候、子息玄達も在宿にて、ゆる/\語申候、玄渓
申候は、於江戸内海道億にも御知人に御成候段、扨々御深志。於拙者も忝存候、内蔵之助存命の内、去極月十八日、同二十四日、二月三日、書状三
通に委細申越候、死後の儀共、傳右衛門殿御京著の上承候様にとくれ/\申越候、越中様結構成被仰付、不及承御馳走共、誠以冥加至極難有、手
紙述かたく御座候段、此上も不可有之と申越候、扨々難有儀、私式迄乍憚難有と被申、右内蔵之助書状とも見せ被申候、拙者申候は不苦候はゞ此御
状は御寫被下候へと申候へは、安き事とて玄達寫給候、其紙面
一筆令啓達候、兼而我々存念の通、今月十四日夜同志相催、吉良上野介殿屋敷え致推入候、家来中出会候者は、薙切に討捨、如本意上
野介殿討取、印を泉岳寺へ持参備亡君御影前候、春以来の散鬱憤候儀、大慶御察可被下候、貴丈にも御満足と押計申候、定而先達而欣
悦と粗及御聞候と令推察候、御同名玄達老御登、可被相達候へとも、討入候次第、引取候様子、玄達老も委細御聞届有之間敷候に付、荒
増書付進候、皆共えも御預に罷成候條、暫之餘命と存候内、生涯覚無之、他にも不承及御馳走共、誠以冥加至極、難述筆紙仕合に御座候、
追付罪名も可被仰付候と相待罷在候、段々の次第、武運にも叶候儀、本望此上不可有之候、右為可得御意、餘命の内如此認置候、
恐惶謹言
十二月二十四日 小野寺十内
原惣右衛門
大石内蔵之助
寺井玄渓老参
追啓、此書付の次第、同志の者共眷属之内、若も御仕置に洩而、残候者御座候はゞ、速に被仰聞可被下候、播州亀山赤穂に有之者には、
和田喜六より相達候様に被仰達可被下候、將又寺坂吉右衛門儀、十四日の晩迄有之候處に、彼屋敷には不見来候、輕者の儀、不及是非
候、以上
追而一札之事、無相違以時節御あみ立所庶幾無他候、為其如此書附達候、又々申候、此状夫々御届候はゞ、此筋より便有之との儀、面々
沙汰不仕候様に、被仰聞可被下候
一筆令啓達候、兼而度々被仰聞候御内存之趣承届、御尤之至、別而致感心候、然は今後一同に御下り之儀は、拙者を初、同志願立候衆
銘々にも申談候通、御下には不及儀と存候、御志を破り候段、無本意可被思召候へとも、元来御勤方違いの貴様儀候故、御同道仕候而は、
此方より馳催候かと、萬一人口に可悪候段、互に無本意儀に候、勿論戦場え警役にて供奉之筈之儀に候、是は流石戦場にて無之候、然は
御止り候儀却て道理當然と存候、御身命をいとひ候て、如此申にては神以無御座候、皆共いか様にも罷成候はゞ、跡にては定而世間取々
毀誉可有之候、年月之寸志を能御存の貴様にて候間、其時相應之噂被成被下候儀第一之御芳志と頼存候、此段御聞届、是非共に御止可
被成候、奥野将監も此頃の上りに貴公御噂被申候、右同前に宜相心得、拙者より可申達と、呉々被申置候、猶惣右衛門、傳兵衛、源五右衛
門、源四郎、十内等、面談可申述候、恐惶謹言
傳言川村傳兵衛、進藤源四郎、此時迄将監一列也
八月六日 大石内蔵之助
寺井玄渓老
一、玄渓宅は、京都柳馬場押小路上ル西側にて、内匠頭様に相働居申候、内海道億は、江戸住居にて、宕下通り居被申候由候事
一、片岡源五右衛門妻子借宅は、伏見両替丁筋銀座にて尋参候、妻之弟有之候に逢申候事
一、淀川船中より上り、八幡山大西坊に尋参候、本社之後に結構成住居座敷、チウタイの間の様成所も有之、段々馳走なと被致候、大西坊は二十斗
と見え申候事
一、大坂天満丁九丁目、茜屋次郎兵衛借宅、樋口杏庵と尋候へは、和田喜六も此所に居被申候故見廻申候、尤拙者旅宿へも被参候、是は浪人にて、
原惣右衛門娘四人預り居被申候事
一、速水藤右衛門頼之、大坂町與力大森次郎兵衛と申仁、天満與力屋敷に居被申候、潮田又之丞頼之状も遣し申候事
右之通候間、貴殿御奉公も相勤、若江戸罷越被申候節、此面々ゆかりと申候て、自然尋可被申事も可有之候、其時無音なと無之様にと書置候也
(了)