津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「旦夕覚書」から・赤穂義士のそれぞれ (二)

2013-02-08 19:59:27 | 史料

一、彌兵衛は内々御咄申候様に、同名甚之丞に御酒を給候に、御下着の上御咄可被下と、笑ひ/\被申候事
一、勘六は、如御存此間手を痛居申候處に、外科本道衆まて御付置被下、御懇意の仕合故、昨日迄に快成候て、箇様の事誠に難有儀と奉存候、長福寺
   にて文良に御傳被下候へと被申候、得貴意候と申候事
一、助右衛門は只今御聞被成候通、十左衛門様内蔵之助へ御挨拶被成候は、今日吉良左兵衛事、今度之仕形不届に思召儀故、領知被召上、諏訪安藝
   守様へ被成御預候、此儀我等心得にて御噺被成との事にて、扨々本望奉存候、乍此上老母事被附御心被下候へと被申候故、得貴意候と申候へは、
   辞世と戒名も少前に書付遣被申候
    春帆獨讃           富森助右衛門
      四日は姉の忌日なれば
    先立ちし人もありけり今日の日を終の旅路のおもひ出にして
一、巻紙に書付置儀故不具候、其後助右衛門旦那寺、浅草の長延寺へ致参詣申候へば、位牌有之、戒名黒塗に金粉にて書付有之、日付とては可有之
   儀もなく、助右衛門存生の内節々参詣被仕、とくより調置被申候故、住持咄被仕候
    但書状之書付、在所は播州加西郡北條に而、渡邊與右衛門と申者にて御座候、同國加古川本陳、中屋與右衛門に被仰付候へは、北條村へ早速
    相達申候、道のり加古川ゟ五里程御座候
一、潮田又之丞も、辞世又は通し申所を書付、少前に遣被申候、播州加西郡北條村、同國加古川本陳、中屋與右衛門に頼候へは、北條村へ即刻通し申
   事に候、加古川より北條へ五里有之候、我等下着候はゞ、直に可申聞候、其内慥成便も候はゞ可申遣候
    武士の道とはかりを一筋におもひ立ぬる死出の旅路に
一、早水藤左衛門は、御家に前廉居被申候早水助兵衛、亡父と別て咄覚居申候、御暇被成候刻、古町の光明寺右助兵衛聟故、彼寺へ引取居候事覚居
   申候に付、熊本光明寺と申寺は、御存被成候哉と被申候、知人にては無御座候へとも、承り及居申候と申候へは、辞世を書て給候
    地水風空のうちより出し身のたとりて歸る本のすみかに
一、赤埴源蔵は、此間より如御存、小瘡出来いたし、致難儀候へとも、御懇にて本道外科衆御附被成候故昨日より快、今日 上意にて切腹仕候段、本望
   奉存候、此旨土屋相模守様御内、本間安兵衛と申者に御通被下候へと被申候、相模守様に、今枝彌右衛門と申者、御取次相勤居申候は、我等縁者
   のものにて、其方へ相頼、早速知らせ遣し候
一、奥田孫太夫は、内々御咄申候様に、一類共へ御咄被下候へと被申候、少前に若■衆と咄居被申候、傳右衛門殿私は切腹の仕様不存候、いかゞ仕
   ものにて候哉と被申候、我等も終に見申たる事も無之候、三方に小脇差出候様に承候、肩衣を御抜不被成内か、兎角なとゝ申内に、助右衛門其外若
   き衆、扨々不入稽古、いか様にも不苦候、唯首を受討れたるか能可有之なと被申談止申候、夫故色々遅速、或は首を受て居被申候衆も有之たると後
   に承り候、何れもへ挨拶なと仕候に付、切腹の場へ出不申候、十七人衆いつれも、茶たはこなと給咄被申、常に少しも替り不申、其筈の事なから感入
   たる事
一、五郎右衛門は、内々御咄申候様に刀を折申候て、相手の刀を取候て差居申候、一類共いな事と可存候間、御咄申置候間、御通し可被下候と被申候
   に付、少も被懸御意間敷候、委細に通可申と及挨拶候、御町奉行松前伊豆守様御與力に吉川藤十郎と申仁有之候、右藤次郎は、五郎右衛門伯父に
   て、尋参候て具に咄申候へは、悦にて候、五郎右衛門子息作十郎は、御旗本衆之幼少故参被申候事
一、瀬左衛門は、大石無人子息郷右衛門父子へ、今日の首尾を御通し被下候様に被申候、近日参咄可申と申候、其後津軽越中守様御屋敷へ参候て、
   無人と郷右衛門・三平父子三人へ知人に成り咄申候事
一、右十七人座配、次第のごとく、一番に内蔵之助殿、御出候へと、吉弘嘉左衛門、八木市太夫両人にて呼立、切腹場に伴ひ申候、内蔵之助殿と呼候
   時、潮田聲を懸、内蔵之助殿、何れも追参可申と被申候事
一、右之通段々に罷出被申候、嘉左衛門、市太夫、内蔵之助殿首尾よく御仕廻被成候、忠左衛門殿首尾好御仕廻被成候と、毎度申候に付、拙者指圖い
   たし候は、首尾好との事を不被申候共、唯名前御呼立可然候、介錯人も次第のごとく、待被居候故と申候へは、氏家平吉承り、尤に存候、あの衆の首
   尾能はいらぬものとて、わらひ被申候事
 

                                 (只今書き込み中) 

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阿蘇の民話(?)

2013-02-08 10:25:21 | 熊本

 昨日は所要で阿蘇在住の有る方と三時間ほど車に乗り合わせることになった。三か所ほどの土地を見て回ったのだが、その合間の車中での話が面白く、大笑いしながら聞き入ったことではあった。その一つをご紹介しようと思う。 

 昔、阿蘇ん村々にゃ富山ん方かる、薬売りん人の来よったですもん。あるとき日暮れ方、爺さん婆さんの二人住んどる家にこん薬売りがやってきて、一商売すますと、どこか近所に宿は無かろうかて聞かす。まもなく道も見えんごて真っ暗になるけん、今晩なうちに泊まんなっせて言わした。薬売りは喜んじ、お世話になりますてち、泊まらすことになった。夕飯ばごっつぉう(馳走)になって、明日は早立ちしますてち、早うに床に入らしたげな。いつも薬売りに世話に成っとる爺さん婆さんな、明日ん朝は手打ちうどんばごっつぉうして、ぼたもちば持たしゅうてち思うて準備ば二人で始めらした。
うどんの生地ば作らす一方、小豆ば炊いたりもち米ば蒸したりさした。こしあんじゃーのうして、小豆ば半割にすっとばこっちじゃ「半殺し」て言いますばってん、爺さんと婆さん二人が小声で、うどんば「手打ちにする」てん(とか)「茹であぐる」、小豆を「半殺しにする」てち話しよらすとば、薬売りがふと目を覚まして耳にさしたらしか。準備ば終えて二人は寝らしたが、翌朝起き上がってみっと薬売りはとっくの昔に、出て行っとらしたげな・・・・
聞き間違えち「殺さるる」てち思わしたっですばい、魂がって逃げらしたてち話ですたい。

 
 地の人の独特な方言は、なかなか紙面にすることは難しいが、ほぼこの様な按配であった。
素晴らしい話術も相まっての楽しい話をお聞きした。
(もち米を茹でて荒く搗くことを半殺しとも言うらしいが、ここでは小豆になっていた) 

 

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