二月晦日追而書案(細川家史料十一・605)は忠利が三齋側近・魚住傳左衛門尉に宛てたものである。
追而申上候、此松露進上申候、爰元之者は、松露を取申事不存候
我等者波邊にて見付申候條、上申候、此旨可有披露候、恐々謹言
(寛永十年)二月晦日
魚住傳左衛門尉殿
「熊本の人は松露を取ることを知らない」と忠利は言っている。家臣が海辺で見つけたというのだが、この時期忠利は熊本に居るのだが、どこの海岸なのか、
松林がある海岸と云うのは現在ではあまり見受けられず予想もつかない。
松林が少ないから松露のことをよく知らないということにもなろうが・・・・
現在でもよく知っている人はそう多くはないだろう。時折天草で「マツタケ」の収穫があったことが報道されるが・・・
肥後入国後の二月の晦日、380年まえの今日の話である。
■三十人の内城にて鉄炮能放、敵を打しらしめ申衆
一、岩田新蔵 以下いつれも小倉ニ而知行拝領す
一、樽井鶴助
小倉にて橋口の矢蔵を拝領被成候、小倉一番の大男しこふつものなり、知行拝領、作五左衛門祖なり、樽井家記には三齋君より鶴之助と
御つけ被成、御近習相勤、高麗陳ニも御供、関ヶ原陳数度相働候ニ付、御懇志を以御腰物拝領、今以所持仕候、慶長六年御知行百三十
石被下、御城内安国寺と申所之御櫓御預被成、元和三年病死仕、其子作右衛門ニ百石拝領、其子作右衛門も同様相続、有馬に御供仕
相働手を負申候、右鶴之助祖父は樽井大和と申候て樽井の宿の国士の由、其子左門次に幽齋君より七人扶持被下置、其子鶴之助なり
一、岩間清次
慶長六年十月御知行百石拝領、家記ニハ清次九歳の時丹後にて御児小姓ニ被召出、岩間滝右衛門と申候て沼田上野介にて三百石弓
頭いたし候者の二男と有之、本文ニは三十人衆と有之、今の岩間清次か祖なり
一、塀利久八 一ニ垪和又■(土へんに井)和
一、吉岡弥三郎
後号万介、一ニ百介、関ヶ原の所ニ詳ニ出
一、村田半右衛門
一、荒見仁右衛門
御知行被下、当仁右衛門祖也、荒見家記ニハ前以御知行被下置、岐阜関ヶ原に御供仕候様に見へ申候
一、友田新之允 新五郎親
一、庄村五郎右衛門
豊前にて御知行百石被下、今の五郎右衛門祖也
一、矢野六内
一ニ兵内、後号六左衛門、才八介病に留られ候ゆへ先に参候へとも城へ付不申候
一、同 計助
一ニ牛助、又平助共、六内同前
以上
■与一郎様任御意御傍ニ居申候衆
一、清水市右衛門
左太郎親、伏見の脇小幡の並の清水なり、丹後で三百石、豊前にて六百石
一、松山兵左衛門
元直、一ニ兵右衛門元真或は元貞とも有、権兵衛元重親、若狭侍なり、丹後にて三百石、豊前ニ而六百石
一、江守孫右衛門
一ニ孫左衛門、一ニ絵左衛門
一、西郡大炊(ィ・介)
清忠、天正年中於丹後被召出五百石、鉄炮三拾挺頭、勢州亀山攻の戦功五百石、岐阜・福智山の戦功によつて千石加増、都合弐千石、
御小姓頭御番頭、多分大炊と云違るとて後に刑部と改候、一書ニ初堀久太郎家来と有はあやまり也、親三河守も丹後にて育被置、大炊
は初より御家士なり、大炊二男西郡要人家督相続、要人死後断絶、子供ハ様子有之、他国いたし候由、後に別録百五十石被下、今の又
右衛門か祖なり
一、魚住与助
後休齋様ニ而与兵衛と云、右衛門兵衛か二男なり
一、牧 新五
天正十九年詳ニ出
一、一宮彦三郎
当一宮儀兵衛先祖附の内ニ寺井庄三郎二男を一宮儀兵衛養子ニ仕、彦三郎と申候、元禄比の事なり、其孫も彦三郎と申候、右儀兵衛
親は善大夫と申候、本国若狭ものにて於青龍寺被召出、慶安四年病死と有、此善大夫初の名彦三郎と申候て岐阜・関ヶ原にも働候なる
へし、尚考へし
一、稲留伝右衛門
伊賀守弟なり
一、杉原三平
始は筒井順慶家来なりしか傍輩と果んと出合首尾能しとて、玄蕃殿御肝煎にて御家に奉公、のち井伊直孝に奉公
一、乙部左兵衛
一、明石孫右衛門
謙信感状二ツ三ツ持しものなり
一、沼田藤左衛門
清延、嫡子小兵衛兄 一ニ弟と有、福智山にて討死、始ハ太閤に仕、若州熊川にて四百石拝領
一、住江小右衛門
始は明石左近家来にて三百石取しを、先知にて被召抱候、左近身体果候時玄蕃殿御肝煎にて魚住右衛門兵衛・鯛瀬善助と共に三人
被召出候、子細は太閤の御意にて播磨におゐて六ヶ敷城を云付られしかハ、此三人の者忍ひて乗取し故なり、関ヶ原御帰陳後六百石
御加増、其後弐百石御加増、丹後にてハ十五挺頭、豊前にてハ三十挺頭なり、求馬か親甚兵衛ハ小右衛門か養子聟にて別録なり、当
甚右衛門・八右衛門等か祖なり、小右衛門知行は死後上知に相なり候なり
一、西 九助
一、山田伝助
新十郎か下ニ詳なり
一、野村源之允
一、杉原少三郎
一、三宅与平次
重利、後号藤兵衛、明智左馬助子、御家を立退寺沢家に奉公、天草一揆の時討死、其子藤右衛門も寺沢家にて武功有、彼家を浪人の
後光尚君に被召出候、今の栄蔵祖也、家系詳なり
一、鯛瀬善助
播磨者なり、住江小右衛門か下に見ゆ、丹後にて弐百石、豊前にて四百石、一ニ六百石共有、家記に本名ハ吉田にて候処、丹後にて三
齋君御意を以鯛瀬を拝領の由、今の善助祖なり
一、岩崎新六
一、森新十郎
後号山田采女、清巌和尚兄なり、玉峯和尚の元ニて手習せしを玉峯被仰にて十六より奉公、近江大石殿なり、山田伝助は清巌の兄実堂
の親なり、初は伝蔵と云、大坂へ籠城し大手柄して討死、親は加賀の大聖寺にて討死
一、喜多与六郎 前に出す
一、国分左助 御右筆なり
一、西郡半助
大炊か弟也、小倉より立退しか、大坂に籠城し、落城の時乃美主水か生捕て助しなり
以上
右穿鑿念を入仕候、働之高下ニより点を懸申候
八月六日
矢野采女
十日も以前に沼田小兵衛右馬に踏れ足を痛城へ着不申儀各存候、丹後にて百石、豊前にて弐百石、矢野勘右衛門親也