慶長五年(1600)の岐阜攻めにおける功名の人達の一覧である。
一、忠興君岐阜戦功の奉行を玄蕃殿へ被仰付、篠山与四郎・加々山半右衛門・工上三大夫・窪田源兵衛を吟味人と被成候
首取申候衆次第不同
一、沢村才八
一、柳田久四郎
五郎助共云、即番生駒平三郎か首をもらいに来りし故、名をもいちしるしく有之候、平三郎ハ中納言秀信共蜂須賀阿波守家政とも従兄弟
なり、久四郎か親ハ柳田鶯之允 後号立庵 と云、始ハ逸見内ニて用ニ立し者なるか、田辺籠城時立退しにより久四郎か何程働てもやくに
たゝぬ事か一ツ有と云しハ此事也、後ニ池田輝政に奉公大坂陳ニてもよかりし也、後加賀利光に仕へ柳田半助と云、柳田久三郎か弟也
一、有吉与太郎
田辺衆
一、小原庄(ィ・小)次郎
与十郎殿江御奉公、後号縫殿、其後立退て加藤肥後守に仕平大夫と云、忠広身体果て候て入道し道有といふ
同
一、荒木左助
高(ィ・元)則、後号山城、助左衛門并外齋等か親なり、今の助十郎・小助・運次等か祖なり、高則ハ高麗・関ヶ原にても戦功有、慶長の末
故有て浪人いたし播州にて病死、外齋とハ助左衛門弟次郎大夫か事なり、三百石被下置候処、御暇被下松平越中守へ有付候へとも又
致浪人、後小笠原備前にかゝり病死いたし候
嶺山衆
一、藤木平三郎
田辺衆
一、野尻又左衛門
与十郎殿に付而田辺に居、後号隠岐、其後紀州へ千五百石にて召抱らる
同
一、中路庄五郎
与一郎様衆
一、中村茂助
新助子、忠興君御乳おとゝい也
白杉庄助組
一、中尾与助
同
一、藤田左助
有吉与太郎者
一、田井助八
福智山の所に詳なり
同助兵衛者
一、市瀬喜三郎
与一郎様衆
一、野村新右衛門
野村又助子也、与一郎様へ初より付居たりし者也
卅人衆
一、市川兵右衛門
一ニ兵左衛門、御側筒の者也
以上十五人
城ニ付申衆次第不同
大手の門口、此門は鉄の門つめの城の入口やまのてへん也
一、菅野勝兵衛
輝宗、後ニ荒川ニ改、武衛家也、義昭公の時六条合戦ニ鑓を合す、光寿院様の甥なり、父は荒川治部少輔時宣
一、白杉庄助
一、加々山忠助
隼人一門也、豊前にて四百石、兄は国見超の主なり
一、竹田半三郎
一、八木田新右衛門
後号宗円、本知弐百石、為御褒美御加増弐百石、父ハ八木田新三郎入道宗真、於青龍寺被召出、丹後ニ而嶋森御城代
一、中嶋甚之允
一ニ中嶋左近甥、中嶋備中弟と有之候へ共、中嶋左近か下の小書と相違有、猶可考
一、戸川平作 一ニ戸山平助ハ誤なり
御馬廻の手に合たる者を中津にて御振廻被成、また若等迄に御褒美を被下しに何としてはつれ候哉、加々山・牧に歎申候を
無是非事とて御前へ申上候ヘハ、馬場に御出被成候時、御脚を下賜り外聞よかりし也、晋州にて討死したる平作か為にハ甥
也、丹後にては百石、豊前にて百五十石御加増被下候、後ニ御暇被下候
一、的場甚四郎
与一郎様御小姓也、後治兵衛、的場甚右衛門か養子也、青龍寺より御奉公、大坂にて藤本勘十郎と喧嘩して打果なり
一、佐川弥一郎
木村常陸に奉公せし時矢を射つけられ片目に成し者なり、番頭七百石
嶺山衆
一、沖六之允
与一郎様衆
一、今井九右衛門
嶺山衆
一、片山平次
田辺衆
一、加々美又六 長貞
少齋嫡子、後小笠原備前長元
同 クシロ
一、久代市右衛門
一ニ九代、後号喜助、其後木下右衛門大夫ニ奉公主水と云、又一ニ久村、又久井ともあり
同
一、長岡久五郎
同
一、喜多与六郎 公信
後改大草、大舘隣齋子家高也、入道後紹意、大草弥右衛門公利親なり
田辺衆
一、中路久六
松井新太郎内
一、生田鵜兵衛 子孫断絶
同
一、本嶋又三郎
後弥五右衛門入道不携
平左衛門者
一、北谷久兵衛 一ニ小谷
同
一、市野彦兵衛
長岡右馬助江戸へ証人ニ被参候時家老ニ被仰付、忠興君より知行弐百石被下候
同
一、小林七兵衛
篠山与四郎者
一、南波九四郎
同
一、加川半三郎
米田与七郎者
一、小森六右衛門
菅野少兵衛者
一、日置甚四郎
同
一、萩野与作
以上
篠山与四郎 判
加々山半左衛門 判
工上三大夫 判
窪田源兵衛 判