津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

岐阜戦功(一)

2013-02-26 13:20:05 | memo

 慶長五年(1600)の岐阜攻めにおける功名の人達の一覧である。

一、忠興君岐阜戦功の奉行を玄蕃殿へ被仰付、篠山与四郎・加々山半右衛門・工上三大夫・窪田源兵衛を吟味人と被成候
       
       首取申候衆次第不同
    一、沢村才八
    一、柳田久四郎
           五郎助共云、即番生駒平三郎か首をもらいに来りし故、名をもいちしるしく有之候、平三郎ハ中納言秀信共蜂須賀阿波守家政とも従兄弟
           なり、久四郎か親ハ柳田鶯之允 後号立庵 と云、始ハ逸見内ニて用ニ立し者なるか、田辺籠城時立退しにより久四郎か何程働てもやくに
           たゝぬ事か一ツ有と云しハ此事也、後ニ池田輝政に奉公大坂陳ニてもよかりし也、後加賀利光に仕へ柳田半助と云、柳田久三郎か弟也
    一、有吉与太郎
    田辺衆
    一、小原庄(ィ・小)次郎
           与十郎殿江御奉公、後号縫殿、其後立退て加藤肥後守に仕平大夫と云、忠広身体果て候て入道し道有といふ
    同
    一、荒木左助
           高(ィ・元)則、後号山城、助左衛門外齋等か親なり、今の助十郎・小助・運次等か祖なり、高則ハ高麗・関ヶ原にても戦功有、慶長の末
           故有て浪人いたし播州にて病死、外齋とハ助左衛門弟次郎大夫か事なり、三百石被下置候処、御暇被下松平越中守へ有付候へとも又
           致浪人、後小笠原備前にかゝり病死いたし候
    嶺山衆
    一、藤木平三郎
    田辺衆
    一、野尻又左衛門
           与十郎殿に付而田辺に居、後号隠岐、其後紀州へ千五百石にて召抱らる
    
    一、中路庄五郎
    与一郎様衆
    一、中村茂助
           新助子、忠興君御乳おとゝい也
    白杉庄助組
    一、中尾与助
    
    一、藤田左助
    有吉与太郎者
    一、田井助八
           福智山の所に詳なり
    同助兵衛者
    一、市瀬喜三郎
    与一郎様衆
    一、野村新右衛門
           野村又助子也、与一郎様へ初より付居たりし者也
    卅人衆
    一、市川兵右衛門
           一ニ兵左衛門、御側筒の者也
       以上十五人

       城ニ付申衆次第不同
         大手の門口、此門は鉄の門つめの城の入口やまのてへん也
    一、菅野勝兵衛
           輝宗、後ニ荒川ニ改、武衛家也、義昭公の時六条合戦ニ鑓を合す、光寿院様の甥なり、父は荒川治部少輔時宣
    一、白杉庄助
    一、加々山忠助
           隼人一門也、豊前にて四百石、兄は国見超の主なり
    一、竹田半三郎
    一、八木田新右衛門
           後号宗円、本知弐百石、為御褒美御加増弐百石、父ハ八木田新三郎入道宗真、於青龍寺被召出、丹後ニ而嶋森御城代
    一、中嶋甚之允
           一ニ中嶋左近甥、中嶋備中弟と有之候へ共、中嶋左近か下の小書と相違有、猶可考
    一、戸川平作 一ニ戸山平助ハ誤なり
           御馬廻の手に合たる者を中津にて御振廻被成、また若等迄に御褒美を被下しに何としてはつれ候哉、加々山・牧に歎申候を
           無是非事とて御前へ申上候ヘハ、馬場に御出被成候時、御脚を下賜り外聞よかりし也、晋州にて討死したる平作か為にハ甥
           也、丹後にては百石、豊前にて百五十石御加増被下候、後ニ御暇被下候
    一、的場甚四郎
           与一郎様御小姓也、後治兵衛、的場甚右衛門か養子也、青龍寺より御奉公、大坂にて藤本勘十郎と喧嘩して打果なり
    一、佐川弥一郎
           木村常陸に奉公せし時矢を射つけられ片目に成し者なり、番頭七百石
    嶺山衆
    一、沖六之允
    与一郎様衆
    一、今井九右衛門
    嶺山衆
    一、片山平次
    田辺衆
    一、加々美又六 長貞
           少齋嫡子、後小笠原備前長元
    同  クシロ
    一、久代市右衛門
           一ニ九代、後号喜助、其後木下右衛門大夫ニ奉公主水と云、又一ニ久村、又久井ともあり
    
    一、長岡久五郎
    
    一、喜多与六郎 公信
           後改大草、大舘隣齋子家高也、入道後紹意、大草弥右衛門公利親なり
    田辺衆
    一、中路久六
    松井新太郎内
    一、生田鵜兵衛 子孫断絶
    
    一、本嶋又三郎
           後弥五右衛門入道不携
    平左衛門者
    一、北谷久兵衛 一ニ小谷
    
    一、市野彦兵衛
           長岡右馬助江戸へ証人ニ被参候時家老ニ被仰付、忠興君より知行弐百石被下候
    
    一、小林七兵衛
    篠山与四郎者
    一、南波九四郎
    
    一、加川半三郎
    米田与七郎者
    一、小森六右衛門
    菅野少兵衛者
    一、日置甚四郎
    
    一、萩野与作
          以上
                                            篠山与四郎     判
                                            加々山半左衛門  判
                                            工上三大夫     判
                                            窪田源兵衛     判  

 

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