津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「細川幽齋と舞鶴」発刊さる

2013-02-27 23:37:45 | 書籍・読書

 舞鶴市から「細川幽齋と舞鶴」が発刊されました。詳しくは舞鶴市のサイトからどうぞ・・・・

                   http://www.city.maizuru.kyoto.jp/modules/sangyoshinp/index.php?content_id=315

                                      yusaimaiduruHP.JPG

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重要文化財に・・「細川家文書」

2013-02-27 20:52:42 | 熊本

 まだ正式では有りませんが・・・・細川家文書が国の重要文化財に認定されます。喜ばしいことですが詳細は明日の報道からご紹介します。

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細川家文書266通を国重文に 文化審が答申2013年02月28日

                                              熊本日々新聞から 

 国の文化審議会(宮田亮平会長)は27日、織田信長が細川家に宛てた朱印状などを含む「細川家文書」(266通)を国重要文化財に指定するよう、下村博文文部科学相に答申した。公益財団法人永青文庫(東京)の所蔵で、大半が熊本大付属図書館(熊本市)に寄託されている。

 永青文庫は、細川家に伝来する鎌倉時代~江戸末期の8万点を超える文書類を所蔵。うち国重文指定対象となったのは、室町時代や安土桃山時代を中心とする最も古い中世文書で、信長や豊臣秀吉、徳川家康らが細川家に発給した文書や、同家の遠祖とされる「和泉上守護[いずみかみしゅご]細川家」に関する文書が含まれる。

 中でも信長と秀吉の政権期(織豊期)の文書が豊富。信長発給文書は59通に上り、文化審議会は「質量ともに圧巻」と評価。長篠[ながしの]の戦いや安土城の普請、本能寺の変、関ケ原合戦など歴史的な出来事の緊迫した状況を伝える文書も多数含まれ、「学術的価値の高い貴重な史料」とした。

 一大名家の史料として系統的に保存されており、和泉上守護細川家の文書群が細川家の由緒や室町期の典型的な武家文書の様式を伝えていることも文書全体の評価を高めた。

 文書群が指定されれば、県内の国重要文化財は36件(うち古文書は4件)となる。答申ではほかに鎌倉時代に活躍した仏師・運慶の木造不動明王立像や快慶の木造騎獅文殊菩薩像[きしもんじゅぼさつぞう]などの3件を国宝に、49件を国重文に指定することも求めた。
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岐阜戦功(ニ)

2013-02-27 09:31:08 | 史料

       大手門脇の屏へ付申衆

    一、米田与七郎  歳十五
    一、若林平四郎
    一、清水左太郎
        市右衛門子休無様 一ニ齋 に付てありきし也、清須にて明日岐阜働と云時加藤左馬殿の肝煎にて被召加、時ニ廿一歳
    一、遠山勘右衛門
        清須にて五日六日程前の御奉公に出候也、武藤つふらにて面に疵を蒙り候をいたミやかて死す、三百石を領す
    松井新太郎者
    一、松井新太郎
        安秀、後号采女、助左衛門親也 ィ・大手一番ニツク
    
    一、明石半四郎
        重方、後号助兵衛、五郎兵衛親也 ィ・大手一番ニツク
    
    一、松井長助
        定勝、後号織部、入道之後正清、角左衛門親也、竹田梅松軒嫡子也、康之名字を遣、母ハ自徳院 康之妻 姉也、竹田永翁ハ弟也 
        ィ・大手二番ニツク
    
    一、坂井喜運
        一ニ酒井喜雲、子孫無之 ィ・大手二番ニツク
    
    一、一色又七郎
        範勝、藤長嫡子なり、後将軍家へ被召出左兵衛尉、寛永六年従五位下、任式部少輔
    
    一、湯川八右衛門
    
    一、麻生新三郎
        後吉右衛門と云、七百石を領す、飯岡豊前聟也、観世又次郎弟子にて鼓を打、親は田辺ニ而働有之、麻生吉右衛門なり、一ニ吉左衛門
    
    一、石寺太郎兵衛
    米田与七郎者
    一、中村市助
    
    一、安威弥三郎
    
    一、山本又七
        一ニ又三と有、考ニ又三は丹後宮津に留守いたし居候て田辺にいつれも引取候時逐電すと米田家記にも有之、又七といふ者又三か子
        歟、兄弟なとに有之たるか、猶考へし
    
    一、山崎清三(ィ・七)
    田辺衆
    一、多羅尾五助
        伊織か若名なるへしとあり

        以上                                 市村半右衛門判 

 

       同矢蔵の南のひらへ付申衆

    一、松井新太郎
        出丸より筋かへて左の頭を鉄炮にて打ぬき冑ニ手こふしの入ほと穴あき候也、去により手も筋かへて負
    新太郎内
    一、佐藤平左衛門
        手負子孫断絶
    
    一、田口弥助
    
    一、粟坂平助
        守政、後号市太夫、一ニ助太夫
    
    一、中路助十郎
    与一郎様衆
    一、毛利忠三郎
        後号又兵衛、父は毛利和泉と云て若州逸見家ニて千石を領、鑓毛利と云れしとなり、忠三郎嶋原にて討死、男子なく家断絶、忠三郎
        姉は有吉立行妻なり、立行死後縁寿院といふ
    一、入江平内入道真齋
        淡路弟、弐百石、若狭の逸見に仕へ牢人して御家ニ参候、芸能多く形儀のぬるき者なり、能登守教経の矢の根・大脇差・乗鞍忠興君
        へ差上申候、平内果候節、忠興君御追悼の御詠歌被下候、立のほる煙の末はなきものをつきせす落るわかなみだ哉 忠利君より被
        為拝領候御書于今本家に持伝候、真齋子孫有之哉、不分明

        以上                                  松井新太郎判 


       詰の門へ入ハ左の矢蔵下ニ付申衆

    田辺衆
    一、杉生左兵衛
        西岡の者此ものを目付石にして何れもの居所を段々にきはしめ給ひしなり、豊前にて八百石、本明智光秀に奉公、山本仙入と云、牢
        人の後大坂籠城打死、親を山本弥太郎と云
    
    一、逸見次右衛門
        本は若狭侍の歴々なり
    
    一、同 一人
        壱人入申候
    
    一、山口藤左衛門
    
    一、植村(ィ・松)弥兵衛   一ニ柘植
    
    一、本間少兵衛

        以上                                  杉生左兵衛判 

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