津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

雲林院(うじい)彌四郎召しだし

2013-02-22 14:13:00 | 史料

 昨日は柳生流の「梅原九兵衛」の召しだしについて書いたが、今日は雲林院(うじい)彌四郎についてである。

  寛永十三年八月四日の忠利から三齋に宛てた書状案(十二--837)である。
 戸田流之なかれか、柳生流をつかひ候ものか、御慰ニ子共ニ、御つかわせて候て、可被成御覚候間、進上可申由、此町ニ遣有候彌四郎と申者、
 牢人にて柳生流を少つかひ申候、戸田流ハ無御座候、(以下略)

      八月四日
                                   佐方與左衛門尉殿

   尚々、兵法つかひ候もの早々進上可申を穿鑿仕、遅進上申候、以上 

  同八月五日三齋の返書(六--1437)
 書状披見候、先日兵法つかひ之儀申候処ニ、柳生流つかひ候者給候、一段満足申候、則今日召出、兵法見申候へ共、今日は黒日・帰忌日に当
 り候、兵法之儀ニ候間、明日寅之日ニ候条、召出見可申と存候、云庵御知候者之由候、親より兵法つかひ候由、加々山主馬所より由緒懇ニ申来
 候、無調法なるハ卒度もかまひ不申候、今ハ鷹野も無之内ニ迄居申ニ付、小姓共腹病迄ニ成申候、稽古させ可中と存候、我々気合同前ニ候、気
 ハさのミわるく無之候へ共、曽而食事成不申候、去年江戸にて発候時分にて候故と存候、明日兵法見申候而、慰可申と存候、恐々謹言
      八月五日                       三齋宗立
              越中殿
                 御返事

  同じく三齋の書(六--1440)においては(抜粋)
 彌四郎兵法存之外見事ニ候而、柳生弟子ニ是程之は終ニ見不申候、これをつかはせ小姓共成かね候所、我々立て遣候て見申候か、一段薬と覚
 申候 

  同八月九日の忠利書状には
 彌四郎兵法能御座候由、久敷つかいてニ而御座候、就夫、弟子共成兼候所、折々被成御立之由、御気も晴、御積ニ所残御座有間敷候、此等之
 趣可有披露候、恐々謹言
      八月九日 

  そして八月廿九日の三齋書状(六--1443 抜粋)
 彌四郎儀此中毎日ほねをおらせ申候、気魂成者ニ而、先日も如申候、存之外柳生流巧者にて候、我々小姓、兵法今度初而にて候ゆへ、一切合
 点不参候間、又春ハやとひ可申候、此由留守居共に被申付置可給候、打大刀も初心ニ候へ共、りきミのなきつかひにて候、猶期後音候
 恐々謹言
      八月廿九日                     三齋宗立
              越中殿
                 進之候 

三齋が彌四郎の兵法を絶賛していることが判る。
横手町の禅定寺にこの雲林院家の見事なお墓がある。一時期都市計画道路の施工にあたり移転の危機にさらされていたが、どうやら熊本県の英断により計画の変更が検討されており難を逃れる希望が見えている。

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忠利公・重賢公・護煕様

2013-02-22 14:02:17 | オークション

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