一、二月九日、江村節齋被参候而被申候は、扨今朝も於 御前御相伴被仰付候、一七日は御精進被遊候由、御意被遊候は、三人の老人共、定て此咄計
にて残念かり可申候、いかゞと御意被遊候儀に付申上候は■(判読不可)夜共寄合、此咄より外無御座と申上候へは、傳右衛門別て心安いたし候もの
多く、多分寺参なと可致と被思召上候、今程が傳右衛門志にて参詣候ても、泉岳寺の出家共御名代と可奉存候、左様之沙汰有之候ては、 公儀へ對し
不可然儀に被思召上候間、見合候様にとの儀に付、可申聞ために参候と被申候、拙者申候は扨は左様に被思召上候哉奉畏候、明十日は一七日に相
當申候間、なにとそ駕にて成ともと存居候處に、今日御意の趣を承候事、誠に仕合成儀と申候へは、此御意の咄は、兵助・源兵衛にも申聞ましく候、傳
右衛門はと計御意にて候間、其心得いたし申候へと被申候事、右之趣はおもひ出し/\調候故、前後は可有之候へとも、譯は相違無之候、尤覚悟仕候
ての儀に候へは、他家の御屋敷并寺又は町屋共に、十七人衆存生之内、通し申所多く候、従 公儀御預り被成衆中の事故、拙者あの衆に懇にいたした
る事、萬一後御吟味に逢可申儀も有之、太守様御越度に成せられさる様にと、専ら心を付、若もの事も候はゞ指出可申と、如此の口上書を調、致懐中居
申し候、紙面左之通
越中守儀、兼而奉重 公儀、毎度参勤之節は、國許にて、御當地江發足仕而は、當屋敷に而、上下の侍共不残呼出、直に申聞候は、 公儀御
代々御重恩、就中越中守は幼少より大國を御預被置、家中之者上下共に妻子相育申候、 公儀之御恩と奉存候様に、道中船中在江戸共に、御
法度之趣堅相守候様に、常々申付候故、今度御預り之儀は、別而入念候様にと、家老共に度々申渡候、然處に私心底には、無雙の忠臣共と
奉存、何れも存生之内、母兄弟息災成る事知せ申度、在所承候へは、中々不申聞候故、越中守為にならぬ儀は、可被申聞も無之候、私之為い
かゞかと被存儀は、毛頭遠慮被仕間敷候、日本の大小神祗を奉懸身命を惜み不申承度と、切々申候故、何も歓委細咄被申承候而、いかにも通
し申候、御吟味にて唯今罷出候へと、兼て越中守念を入申儀を背き申たると奉存候へは、私儀は不忠罷成候、此段不及是非奉存候、此外別に
申上候儀少も無御座候、以上
右之通申上、果可申覚悟にて候、今度喜左衛門御使に被参、逗留被仕候へ共、喜左衛門は御役勤居被申候故、右之趣委細に可申様も無之候、荒増
は二十一日に立申候に付、初て申聞候而、下著之上咄可申候事
日の本の名まで揚ぬる武士の親とやいはん四十六人
おかしく候
未二月二十九日 堀内傳右衛門
堀内勝助殿へ