大日本近世史料・細川家史料十三 1192(p209抜粋)に大木織部(兼近)に関わる記事がある。
寛永十三年九月十三日付忠利の書状だが宛名は切り取られているという。光尚に宛てたものであろう。
以下の記事について大木織部を(兼近)と()書しているが、これが間違いであることを明らかにしておきたい。
(兼近)
大木織部者、籠を破出候者之事、小川亀介と申人之所ニ居候を、被届候へは、かどり自害仕ニ付、亀介殿より理ニ付、相済候由、得其意候事
頭注には「大木兼近家来破籠潜伏中逮捕ヲ気取り自害ス」とある。
つづいて人名索引をみると、織部は大木兼近(1192)として紹介されている。
細川家臣。織部。加藤忠廣家臣大木土佐の男。遺領三千四百石余相續のところ、忠廣改易により筑後へ立退く。寛永十年澤村吉重子湘雲守沅并に
平野源太左衛門を以て忠利に召出さる。当時十四歳・・・(以下略)
ここで兼近だとする十四歳の大木織部の召出しに関わる詳細を知ることができる。
「細川家主要家臣」を開き大木家の項を見てみると、大木織部を兼近としている上記の記述が間違いであることに気付いた。
弥助・織部・土佐守 弥助・四郎・土佐 兼久・四郎・織部 織部・隼人・舎人
大木駿河守-----------兼能----------兼友---------兼憲------------兼近
人名索引は兼憲と兼近とを取り間違えている。大木織部は兼憲であり、兼近はその息である。