光尚逝去後、十七才の松井寄之を後見し、幕府に対して六丸(綱利)への遺領の相続を迫った、袖引き九兵衛の異名をとった梅原九兵衛の召出しに関わる記事がある。
寛永十三年八月十日光尚宛て忠利書状(十三・1189) 尚々書
梅原事、三百石と候ヘハ、四百石も五百石も遣候由、(波多)中庵所へ自筆にて被申越候、それハ何とそ柳生親子(宗矩・三巌)か兵法の上手か、わけ可
在之候、慥ニ中庵使仕候、柳生殿へ之めんひ(面皮)ニ知行遣事少も成間敷候、左様之わけもなき様ニ家成下候ヘハ、口惜儀候、約束之知行いやかり
候ハゝ、追遣候て可然候、又兵法をつかひあけ、其方ためにも可然事候て、重而知行可遣ハ、誰之にても左様ニ可在之事候、左様之事ニて取候知行取
もはぢにて候、遣候者も同前ニ候、左様之所ハ、何ほと身持ニよく候共成ましく候、此所ハ能々分別可然候、か様之少之儀にても、作法をやふり候事ハ、
他家ニ何ほと仕候共、堅我等家ニハ可被禁候、中庵承候通、其方へ返事申候へと申候書付可参候、已上
肥後殿
進之候
高禄にて九兵衛を召し抱えようとする光尚に対して、柳生家への面皮にて知行を遣わしてはならない、新参を召し抱えるについては作法を破ってはならないと諭している。先に書いたように九兵衛は、綱利への跡目が相違なく行われたことで、光尚に対しての面目を施している。